まどろみの中のサンセット

フィクション

2023年7月3日 06:11

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夢中とは心地良い霧の中を漂っていられる状態のことだ。
立ち込めているミストによって視界がさえぎられ、自分の目の前にあるもの以外全く見えなくなっている。まどろみの中さまよい続けている自分がどんな風に見られているのか、有利な立ち位置にいるのか不利な土俵際まで追い込まれているのか、比較できるものがないから全くわからない。だが、暗闇に包まれているトンネルの中とは違い、どこか開放的で、どこか幻想的な世界観がそこにはある。

この先に待ち受けているのは天国なのか、それとも切り立った断崖なのか。
ひとかけらの不安を抱えながらも、手に入れたかったファンタジーに包まれている物語の中にいる主人公は、今日もまた筆者には語れない冒険の旅に出ようとしている。

ボトルレターを半ば誤って手渡ししてしまったと考えている主人公は、心の扉が中途半端に開いたままの状態にどこか居心地の悪さを感じていた。自分の本心を何のアレンジも加えないままさらけ出すことは、想定通りにならなかった時に何の弁解の余地もない丸腰だと考えていたからだ。数日間ずっと彼はあの夜のことを思い出し、深い眠りにはつけず、まだ太陽が起き上がってくる気配も見せない時間から創作活動に勤しむことくらいしかできなかった。

主人公はよくテレワークで仕事をしていた。自宅のワーキングスペースで行うことが多いが、気分を変えたいのと話し相手が欲しいことから、Wi-Fiが使える海辺のカフェで仕事をすることも少なくはなかった。ノートPCとお気に入りのマイクをカバンに詰め込み、度付きの青いサングラスを片手にクルマに乗り込んだ。片道30分以上かかる少し距離のある場所ではあったが、緑が濃くなってくる季節の山を見ながらあれこれ考える時間は、彼の頭を整理するのに大切な時間だった。

カフェに着くと、髪の長い清楚系の女性が慌ただしく開店の準備をしていた。オーナーでもあるメアリーは１人でカフェを経営しており、常連客である主人公はあまりにも混雑した時には店の手伝いをすることもある。ただ、周囲に目立った観光地もない漁村の外れにあるこのカフェは、平日の昼間にほとんど客が訪れることもない。主人公がノートPCを持ち込んで仕事している間、メアリーは隣町の道の駅で販売するブレスレットを手作りしている。その間、２人で笑いながら何時間も話をしているというのが、カフェで仕事をする日の日課だ。

「ごめんなさい、まだ開店の準備ができていなくて。」
「いえ、いつも朝早くからすみません。メアリーさんの顔が見たくて、というか声が聴きたくて、我慢できずに来ちゃいました。こんな爽やかな朝を感じられないのはもったいないので、テラス席使わせてもらいますね。」
「それなら私も、準備が終わったら合流しますね！」

彼女が、そこにいること。
空気のような存在で、いつも一緒に寄り添っているのが当たり前で、２人でいることに特別感はない。それでも、彼女の目を細めて笑った顔と甘い声は空間を華やかにしてくれる。主人公があえてこの場所で仕事をする理由だ。ともすれば無機質になりがちな日常に、少しでも色を足したかったから。

太陽が最も高く昇った頃、メアリーは和風パスタとサラダのプレートを２つ主人公の席まで持ってきた。主人公が注文をしなくても、主人公の食べたいものを想像して用意してくれる。店のオーナーと客であるはずが、この２人だけの空間を見てそう思う人はいないだろう。

「今日は朝からあっさりしたものしか食べられないと思っていたけど、よく俺が食べたいものがわかりましたね？」
「今さら気付いたんですか？もう。だって、ウチのダンナより長い時間一緒にいるんですから、食べたいものくらいわかりますよ。それに、あなたが食べたいものが、私の食べたいものだから。」
「ウチの妻もメアリーさんくらい気を遣えたらいいんだけど。仕事が終わって帰っても、そこから専業主夫タイムが待っているだけだしさ。もういっそ、このカフェに住もうかな？」
「ダーメっ。ちゃんと素敵な奥さんいるんだから。それに私だって、帰ったら子どもの世話と、夜遅く帰ってくる大きな子どもの世話をしなきゃならないの。お互い頑張ろ。」

オーナーと客という関係、そして若干メアリーの方が年上だろうと察して頑張って敬語を使っているが、関係が長くなったのか所々それが崩れる。この微妙な距離感が少しばかりくすぐったく感じ、同時に愛おしい。主人公がオフィスに行かなければならない日は当然ながら会えないが、時々カフェの様子が気になり電話をかけることもある。それくらい、彼の生活の中に溶け込んでいるのだ。

ランチ後、主人公は姿勢が悪いまま仕事に集中しすぎていたのか、身体が凝り固まってきた。近くの海岸まで散歩に出て波打ち際で軽く体操を始めると、太陽はまもなく水平線に別れを告げようとしていることに気付いた。そんな中、彼のスマートフォンに着信が入る。

「先日はありがとうございました。ジュリエットです。」

スピーカーから通話相手の声を聴いた瞬間、主人公の身体には大きな電流が走った。ボトルレターを手渡ししてしまった相手からのまさかの電話に、いつもは湧き出てくる言葉が何一つ出てこなくなり立ち尽くしてしまった。それでも、あの夜に中途半端に開けてしまった扉をフルオープンにするなり完全に閉じるなり何かしらしなければならない思いに駆られ、必死に言葉を絞り出した。

「こちらこそ、素敵な時間をありがとうございました。なんか、あの夜はどうしても我慢しきれなくなって、つい自分の気持ちを言葉にしてしまいました。状況も考えずに、申し訳なかったです。でも、できたらこのまま・・・。」

主人公が恐る恐る言葉を選んでいると、ジュリエットはその言葉をさえぎるように言った。

「大切にしたいと、思ったんです。」

主人公が返答の言葉を探していると、ジュリエットはそのまま話を続けた。

「いつだって終わらせることができる関係でいいなら、何だってできる。上手く誘われたら、ついていったかもしれない。だけど、激しい感情のまま咲かせた花は、長くは持たず枯れてしまう。でも、あなたとはそうなりたくない。後ろめたさのない、熱く、ではなく温かい関係で、ずっと一緒にいたい。あの日からずっと考えていました。」

主人公は、声にならない声で、「あぁ・・・」と息を吐き出すしかなかった。彼のこれまでの人生で全く経験したことのない感情だった。彼が想像していた人知れぬ少し淫靡な香りのする恋とは程遠いものかもしれない。とはいえ、そこには間違いなく愛されている実感があり、自分自身では気付いていなかった「手に入れたかったもの」が思わぬ形で舞い込んできたような感触があった。

もちろん、彼女の身体が全く不要だったかという問いに自信をもって「YES」と答えられるほど出来た人間ではなく、それだけ彼女のことを魅力的に感じていた証ともいえる。学生時代、数々のレッドラインを超える経験を持つこの男にとって、多少のレッドラインで躊躇するほどヤワでもない。だが、彼女と一夜を共にすればそれで満足だったかという問いには自信をもって「NO」と言える。欲しかったのは彼女の「心」の方だったのだ。ただ自分が彼女の隣にいること。その存在を甘くせつなく、そして激しく求めて欲しかった。「そう来るか・・・」と照れ隠しを誰もいない海に向かってした後、主人公はこう言った。

「俺で良かったら、セカンドパートナーとして、よろしくお願いします。」