みにくいアヒルの子の呪縛

俺スタイル
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皆さんは、子どもの頃読んだであろう「みにくいアヒルの子」の話を覚えているだろうか。

思えば、自分も生まれた時から「みにくいアヒルの子」だった気がする。俺自身が白鳥だったかどうかはさておき。
なんとなく、どこにいても「お呼びじゃない」感が。仲間内の中での居心地の悪さやフィットしていなさ加減なんかを感じながらここまで生きてきた。それは決して自分と周囲のレベル感のギャップなどではなく、「本当に自分はこの集団の中で受け入れられているのだろうか?」という自己肯定感の低さから来る不安が発端となるものだ。

良くも悪くも目立ち、浮いてきた気がする。それは集団の中での自分というものだけではなく、1対1の関係でも同じである。本当に自分は歓迎されているのだろうか、自分は求められているのだろうか、と不安になりながら生きている。タチが悪いのは、周囲は俺を白鳥側のポジションに置いてくることが多いことだ。「あなたは間違っていない。だけど・・・」この・・・部分に「お呼びじゃない」ニュアンスが含まれていることがほとんどだ。

よくある「いい人止まり」ポジションもこれに類似するものだろう。「本当に素敵な人だと思いますよ。きっといい人が見つかりますよ。」このセリフもどれだけ多くの人に言われてきただろうか。相手にとっては悪気があるわけじゃない。むしろ、励ますつもりで声を掛けてくれるありがたい好意なのだろう。それがわかっているから、こちらも受け止めなければならない。だが、こちらとしては疎外感で離れ小島に取り残されているような気分になる。

歳を重ね、少しは抜け出せたかと思っていたが、やっぱりこのポジションに戻される。ある程度の立場になって、周囲に「現状は把握さえできれば縛られる必要はない。これからの行動次第で未来はいくらだって変えられる。」と呼びかけることが少なくない俺が、宿命とも呼ぶべき呪縛の泥沼に足をとられてしまっている。手に入れかけた幸せすら、それが幻想だったという現実を突きつけられる。

孤高の翼を休めた状態で眠れる日は訪れるのだろうか。

 

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