“優れたビジネスマン”のフリをした怠惰な日常を横切るかのように、夜明け前の眠りから覚めた芸術家が帰ってきた。ロジックの鎧に身を纏った暮らしの中で、だんだんスピードを上げ疾走感を感じながら生きていた。だが、鎧はあくまでも鎧。豆腐メンタルを覆い隠すことはできても、豆腐メンタルそのものを鋼のメンタルに置き換えることなどできやしない。
臆病すぎる主人公は、鎧の内側に刺さった傷を消し去るように、闇夜に溶けこんで赤い傷口を黒く塗りつぶすために、今日もまた旅に出る。
日の出の気配すら感じられない明け方、主人公の電話が鳴った。
サイレントモードにしておいたはずが、バイブレーションが止まらない。まだ身体が思うようについてこなかったが、とりあえず手だけ伸ばし電話に出ることにした。
「マーメイドさん、どうしたの?こんな時間に。」
「あの・・・、ちょっと相談したいことがあるんです。今日どこかで時間とってもらえませんか?」
東京に出る用事があるので、ターミナル駅近くにあるシティホテルのラウンジで会う約束だけ取り付け、電話を切った。
マーメイドとの出会いは5年前にさかのぼる。
珍しく都心のオフィスまで通勤する朝、いつもより1時間早く目覚ましアラームを仕掛ける。その日の仕事内容や気分に合わせてスーツで行こうかカジュアルで行こうか頭を悩ませるが、この日は少しフォーマルっぽく見えるグレーのテーラードジャケットを選び、半年前にアクセサリー工房で作ってもらったブローチをセットすることにした。もう決して若くはない。だけど、どこかで老いへのレジスタンスを感じていたい衝動もある。まだ夢の世界から戻ってこない妻がいるベッドにいってきますと小さく声を掛け、車のエンジンを掛けた。
オフィスに着くと、スケジューラーにビッシリ詰められた会議の数々が主人公を待ち受けていた。普段オフィスに高頻度で現れないばかりか、リモートワーク中も昼間しょっちゅう不在にしていることが多い主人公を何とか捕まえようと、仲間たちは隙間を縫うように会議設定をしてくる。彼もそれをわかっていて「今日はコミュニケーションをするための日」と決めてオフィスに向かっているようだ。
多忙なスケジュールによりランチタイムを逃した彼は、オフィス街のキッチンカーで売られていたタコライスをテイクアウトし、社員交流の場のカフェテリアで食べることにした。片づけを終え、少しばかり休憩をしようとしていたところ、甘くて可愛らしい声が主人公の後ろから聴こえてきた。
「一緒に食べよっ!」
振り返ると、パステルカラーを取り入れたファッションの女の子が、別のキッチンカーで買ったお弁当を片手に主人公の隣に座ってきた。弾けるようなその笑顔は、これからいたずらしようと企んでいる子どものように屈託のない明るいものだった。中高年比率が異様に高い主人公の会社で、彼女はまさに「みんなのアイドル」の称号がふさわしい人魚姫のようだった。
「マーメイドさん、久しぶり!マーメイドさんもお昼まだだったんだ?」
主人公の表情は、まるでそれまでの疲れがまるで最初から無かったかのようなものに変化した。初めて会った時から彼女の甘い声からはもちろん、ファッションからも彼女自身からも原色のような濃さはないが鮮やかなカラーに彩られたような空間を感じとることができ、そんな彼女と過ごす時間は彼の数少ない楽しみの1つだった。万が一にも自分の欲望に任せて彼女を傷つけてはいけない、本当にそっと手を触れる程度に包み込んで守っていきたい、儚くも貴重な天使のようだった。
「さっき主人公さんの後ろ姿を見掛けて、お話ししたいな~って思って。そういえばさっき同じ部署の人が旅行のお土産をくれて。2袋もらったから、1つあげるね!あっ、でもそれぞれ種類違うから半分こしよ。」
破壊というものは時に暴力を使わずともいとも簡単に可能であることを、この時思い知らされた。
ここからだった。脳内麻薬に手を出し始めたのは。彼女を定期的に食事に誘うようになった。
モノクロに染まった日常にパステルカラーの差し色を載せるように、主人公の日常にファンタジーな世界が加わった。可憐な人魚姫の前で悪態をついたり戦闘モードを見せたりするわけにはいかない。若い頃肩で風を切ってすれ違う人を睨んで歩いていたヤンキーはどこへ行ったのやら。いつの日か主人公まで純粋な真人間になっていたようだった。
更生させてくれた御礼というわけではないが、彼女の相談にも度々乗るようになっていった。
私生活の相談はもちろん、仕事上でもサポートができるよう主人公の手元に置こうと画策していた日々だった。自分の顔が利く関係者に頭を下げて回り、なんとか顔なじみの取引先と話をつけてきた。彼女の人生に関われること自体に喜びを感じ、どんなことだって持てる力の最大限を発揮してきたつもりだ。もちろん、表情にも態度にも出さず「ついでだから」とさも当たり前のように振る舞うことも忘れなかったが。
ただただ、幸せになってほしかった。真人間に近付けた主人公にとって、我欲は一切なかった。
目の前の人魚姫が可憐な笑顔を振りまきながら、大海原で思うままに泳いでいる姿をただ見守っていたいだけだった。守るべきものがあって、何よりも臆病に臆病を重ねた主人公はどうせ何一つできやしない。人魚姫を自宅の水槽に閉じ込めて彼女の人生に傷をつけてしまうことなどできるはずもなく、かといってマッチを擦って2人だけのキャンドルを灯すことすらできない。一度火をつけてしまったら、いつかその火が燃え尽きる時が来るのがわかっていたから。
怖かった。パステルカラーに彩られた日常が、再びモノクロに戻ってしまうかもしれないことが。
火をつけずにほのかに温かい状態を保っていれば、これが日常になり”当たり前”がアップグレードされる。少し前に別案件で火をつけて苦い思いをした経験が、主人公の臆病さに正当さを与えた。
待ち合わせのホテルのラウンジに着くと、主人公が到着してまもなくマーメイドが現れた。
他愛ない近況報告をお互いし終わった後、マーメイドは一度座り直してから口を開いた。
「来月、彼の仕事でニューヨークについていくことになったんです。たしか主人公さんは昔ニューヨークに住んでいたって聞いていたので、向こうでの生活を色々教えてほしくて。」
ついにこの日が来てしまったか・・・。だけど、何の兆候も感じ取れなかっただけに、心の準備も想定も何もできていなかった。頭から汗が噴き出している。とはいえ、それを表情やリアクションに出すわけにいかない。
「お、おう・・・。あっ、そうなんだ。ニューヨークはなかなか良い街でね・・・。」
このあと何をしゃべったか覚えていない。冷静さを装うために、おそらくニューヨークでの生活をまるでサケが自分の生まれた川を少しずつ遡上していくかのように、思い出せる範囲でしゃべったんだろう。ただ、詳細な情報がすぐには出てこなかったがために、「調べてデータ送るね!」と宿題を持ち帰ることにした。
彼女と別れた後、会社に戻って出席した会議は完全に上の空だった。新規プロジェクトに参画しいつもは色々意見を出しているのだが、この日は冒頭から30分、聞き役に徹していたといえば聞こえは良いが、何も言葉が出てこなくなってしまった。
「あれ、今日は珍しくずっと黙っているんだね。何かこれに関して意見ある?」
上司に話を振られてようやく我に返った。その後はきっと無難にこなしたんだろう。
席に戻って隣にいた仲の良い同僚に、内容は告げずに気持ちの部分だけシェアしてもらってなんとか日常は取り戻せた。最低限のチャージだけして、帰路についた。
でも、家にはまっすぐ帰れない。
誰もいない夜の海浜公園で、何もかもを吹き飛ばすほどの強風にあおられながら、なんとも言えないモヤモヤ感を東京湾に流したのだった。こんなメッセージとともに。
海の向こうに見える街が光輝いて見えるのは、私が住む街の明るさに気付いていないからなのか。
それとも、手に入らない輝きを求めてきた報いなのか。
きっと輝きを手に入れても、都会の華やかさに羨望する日々は消えないだろう。
闇を手に入れる旅に出よう。
星の瞬きすら眩しく感じられるほどに。
もう1つ。
追い風はいつの日か強烈な向かい風に変わる。
誰にも見えない夜の海辺で、誰にも見られたくない姿と向き合う。
満ち足りた日々に埋め尽くされた者の詩を誰が望んで聴くだろうか。
感情などいらない。偶然できた理想の虚像さえ手に入ればそれでいい。
ただただ照らせ。いつか影さえ消せるほどに。
「こんなことで感情を動かされるなんて、俺もまだまだ若いな。」
火をつけてもダメ。火をつけなくてもダメ。
「惑わず」といえる四十はまだ見えず。老いへのレジスタンスは、もうちょっと先でいい。
フッとシニカルな笑いを噛みしめ、夜の海に別れを告げるのだった。
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