AMラジオのような存在

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春の季節の美しさに心を奪われているうちに、5月になってしまった。
サラリーマン生活2年目はそれまでの俺と比べると、艶やかで輝かしいものであることは間違いない。会社の人も見ている手前、詳細について言及するつもりはないが、当初描いていたものとは大きく異なるものになったことは間違いない。

もし、久しぶりに俺に会う旧友がいるとするならば、彼らはこうつぶやくだろう。
「あいつは、変わってしまった・・・。」
俺が立ち回るフィールドは変わった。東京の中心部を「庭」とし、いつもオシャレな飲食店で食事をし、身につけるものも高級百貨店で買ったものが多くなった。都会に「染まってる」。食事だって、以前は1人で入れる店ばかり探していたものの、今は特定の誰かではない女性を連れて雰囲気の良いレストランやBARへ行けるようになった。大学時代の俺とは違う。今まで周りにいた人が離れていくのもある程度は仕方のないことだとは思わなくはない。

だが、それはあまりに一面的な捉え方であり、表面しか見ていないと言わざるを得ない。人間、本質的な部分はなかなか変わる事ができないものである。
話の運び方、ゼロベースで常識度外視で考える発想法、ある種の「鈍くささ」みたいなものはほとんど変わっていない。その証拠に、俺のように古くからブログを書き続けてきた友人の記事と俺の記事を比較すればわかる。彼らの文章は高尚であり、クセがあまりない。飲みやすいワインと例えるべきか、FMラジオと例えるべきか。テレビ番組のような運びではない。読んでいて身近に感じられる部分はあるため、ラジオのような文章なんだろう。とはいえ、FMラジオだ。FMラジオは比較的音質が良いこともあってか、音楽中心の番組構成であることが多い。喫茶店のBGMにでもできそうなくらい、オシャレな音楽を中心に、トークは「添え物」のような形で展開されている。

一方で、Davyの文章・トークはどうだろうか。明らかにAMラジオである。良く言えば親近感に溢れ、悪く言えば品が無い。AMラジオでも音楽は流れるが、あくまでトーク主体の構成。そのトークもFMのようなサラッとしたものではなく、結構踏み込んだ発言の番組が多い。まるで、友人の会話を盗み聞きしているようだ。俺の存在そのものがAMラジオであることは、俺と触れ合う時間が一定以上あれば誰でも気付くことである。会社でも人事部より発言について注意を受けているくらいである。

そもそも俺のトークの構成は、真面目なフレーズとふざけたギャグの緩急がきめ細かく織り交ぜられており、それ故にモノローグが長い時間続いてもそれなりにカタチにはなる。真面目なフレーズの中にも、例え話を多用することが多く、その例えたものについての説明をすることで物事の本質を感覚的にわかってもらおうとしているのだ。そのために、過激な例え話を使うこともあり、そのことが批判の対象になることもある。そこでお叱りを受けてしまうのだが、そもそも話の中で掴むべきなのは俺が何を伝えたいかという「本質」であり、そこで使った話などは枝葉末節にすぎない。多少オーバーな表現や虚偽などが含まれていたからといって、いちいち騒ぎ立てる類のものではなく、そのようなことに目を奪われているようでは話の本質を見失うと強く警告しなければならない。

つまり、この文章で何が言いたいのかと言えば、人は何らかのきっかけにより言動自体は変わるかもしれないが、本質は変わらないということだ。優しくなったように見えて、やっぱり俺は気難しい。それでも俺は、AMラジオのような存在でいようと思う。こうして文章を通じてでも、直接リアルタイムに会う関係においてでも、相手にとって親近感を覚える存在でいたいし、その人の味方であり続けたい。大人になるにしたがって表面的な人間関係になる人が多いように思うが、あえてその逆を行ってやろうじゃないか。ささやかな覚悟である。

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