記念すべき7周年をこのような形で迎えるとは思わなかった。
こんな形で8年目に突入するとは思わなかった。
本来ならばこれまでの軌跡を振り返るであろう記事が、別れの言葉を綴るものになってしまう。
2006年2月26日。fqtとしてブログを立ち上げ、新たな人生がスタートした日。
あれから7年の月日が経った。ついに8年目に突入する。いつもならこの記念日を祝っているだろう。
だが、今回に関しては祝う気にはなれない。
2月24日日曜日。朝の目覚めは母親からの電話によるものだった。
「パー君が、死んじゃった・・・。」
起きたてということもあり、意味がわからなかった。とりあえず「今から帰る」とだけ伝え、俺は急いで直近の新幹線の予約を入れた。
電話を切った後、全てを悟った。何かの間違いではなく真実なんだと、俺を信じ込ませる出来事があったからだ。
前日、2月23日土曜日。投資信託のセミナーにY氏と行く約束をしていたので、新宿に向かった。その前の日の会社の健康診断を兼ねた懇親会があまりに楽しかったので、少し浮かれ気分だった。
セミナーが終わり、彼と一緒に京王線に乗り、南大沢に向かった。その時の車内での会話が、5年以上信じ続けていた、いや縛られ続けていたある幻想を破壊するものだった。その夜に書いたツイートを振り返ろう。
「自分だけのメジャーを持ちなさい」って。その俺がちょっと波しぶき食らったくらいで、自分の思い出を否定してどうすんの?今があるのは、あの時のおかげなんだろ? 02:12:58, 2013-02-24
「事実だけが、伝説になる。真実を遺した者だけが、英雄になる。」
まだまだ俺の歴史はこれからだ。 02:21:03, 2013-02-24
「過去は乗り越えるもんじゃないんだよ。仲良く付き合い続けていくもんなんだ。どんなに裏切られたって、君の一番の親友でいてくれるよ。」って(笑)
これが、俺が出した答えだから。この答え合わせは、俺自身がするつもりだ。 02:27:27, 2013-02-24
この時は内容に触れなかった。本当は、今でも触れたくない。だけど、もう最期だ。恥を忍んで、全てを認めようじゃないか。しばらく俺はここには戻ってこないだろうし、このブログをたたむつもりで、ずっと言えなかった真実を語りたいと思う。場合によっては、これが俺からの最期の言葉になるかもしれない。
これまで俺を縛り続けていたもの。そして、俺が静岡を出なければならなくなった理由。静岡に戻れない理由。
会長時代の話です。俺が静高で自治会長(生徒会長)をやっていた時の話です。会長時代の話そのものについては、事あるごとに触れてきた。最近では大阪の高校の事件もあり、触れる機会が多かったように思う。
俺は当時のやり方は間違っていたと認めつつも、当時やろうとしていた改革の方向性は間違っていないと固く信じていた。そして、そのために未達成ではありつつも、教師だったり上級生だったり、何より「伝統」に対して闘ってきたと、これまでずっと思い込んでいた。思い込ませていた。月日が経って、自分も周りも当時の記憶が薄れていたことをいいことに、思い出を美化しようとしていたかもしれない。それだけじゃない。俺はその過去をずっと利用してきた。人と上手くやっていけないのも、あの事件があったから(つまり、俺はそういう人間なんだ)。友達が少ないのも、あの改革で離れていった人が多かったから。そういうことにしていた。「俺はあんな事件を起こす人間です。俺に関わると幸せになれませんよ。」とあえて人を遠ざけたこともあった。もっと下世話な話で言えば、高校時代(特に後期)に彼女を作ろうとしなかった理由。度胸がないだけなのに、「いや、静高で俺と付き合ってるなんて言われると、その女の子がかわいそうだ。潔く身を引こう。」などと、勝手に敬遠していた。背負いたくない十字架を背負わされていたんじゃない。自ら、それを隠れ蓑にして、自分を守ってきたんだ。傷つきたくないから、過去の傷を利用して生きてきた。
そんな俺にY氏は言い放った。
「会長時代のことなんて、誰も覚えてない。」
彼は、自分も含め周りが俺の存在など記憶の片隅にも無い理由を延々と話し始めた。「結局、お前は何もしていないんだ。」とすら言われた。
ショックだった。俺がこれまで信じてきたものが砂上の楼閣だと知り、何が何だかわからなくなった。静高の連中は、俺のことを嫌いでいて欲しかった。憎むべき対象でいて欲しかった。好き嫌いで判断される男でいたかった。だって、俺は、わずか十数人の仲間以外は、全員俺のことが嫌いなんだ!って、本気で信じていたから。嘘じゃない。これだけは文章を書く上で投入するエッセンスでもなければ、俺のキャラを創り上げるための「盛った話」でもない。本気で俺は嫌われていると確信していた。俺の事を気持ち悪いヤツだと思っているであろうと、そしてそんな過去は消せないだろうと思っていた。俺に良くしてくれる人がいても、「どうせ陰で悪口言われてるんだろうな」と勝手に思っていた。だからこそ、それにレジスタンスすることで、自分の存在価値を知らしめようとすら考えていた。嫌われ者として、多くの人々の記憶に残った状態で死んでいきたかった。それが俺にとって「生きる」ことだから。
それが、嫌われるどころか、「無関心」。歴史上に名前すら残らない一般市民のうちの1人。俺の存在は、人々の記憶の中に存在しない。
じゃ、今まで俺が闘ってきたものは何だったの?
俺が信じてきて、利用してきたものは何だったの?
俺の高校生活は、何も無かったってこと?
よく高校時代を振り返る際に、「空白の3年間」「失われた3年」という表現を好んで使う。でも、それは恋愛に関する話のみを指して言う話だ。
だが、そうじゃなかった。本気で俺の高校生活は「空白」だった。誰の記憶にも残らないものだったなんて。一番恐れていたパターン。しかも、自分自身ですらそれに薄々気付きはじめていて、それを打ち消すためにあえて記憶を改竄してきた。
本当に、聞きたくなかったよ。
俺に対して最も言ってはいけない言葉だった。
もしY氏じゃなかったら、本気で縁を切っていただろう。
とはいえ、その言葉を聞いたとき、ショックと同時に腑に落ちないものがあった。
もともとはそんな話になるような会話はしていなかった。話の展開として、明らかにおかしかった。俺も思わず聞いてしまった。「なんで急にそんな話になったの?」と。
彼と別れた後、ずっと考えていた。なぜ今のタイミングで、アイツは俺にあんなことを言ったんだろう?特に何かあったわけでもないのに。ずっと溜め込んでいたものが急に爆発したのか。ワケがわからなかった。
日曜日の朝、弟のように可愛がっていた愛犬の訃報を耳にした時、全てがつながった。
きっと、この世を去る前に、どうしても俺に伝えておきたいことがあったんだろう。でも、犬だから言葉は話せない。そこで、俺に最も近い友人であるY氏に最期のメッセージを託したんだろう。人間の勝手な解釈かもしれないが、俺はそう思っている。
犬種はパグ。父がつけたパフィーという名に誰もが馴染めず、「パー君」「パーちゃん」パン好きなことも手伝って「パンちゃん」になることも。
俺が小学校1年生の5月6日に我が家にやってきた。父が会社の人から、子どもがたくさん産まれたというので一番元気が良かったオスをもらってきた。3月15日が誕生日なので、生後2ヶ月にも満たない小さい犬。夕方、スイミングスクールから帰ってくると、ツカツカと足音を立て、俺を玄関まで迎えにやってきた。それが出会いの瞬間だ。
一人っ子の俺にとって、彼は弟のような存在だった。たまに友達が家に遊びに来ると、一緒に2階まで上がってきて遊んだものだ。一緒に寝たこともあった。俺の腕の上にアゴを置いて、ヒゲが当たってくすぐったかったけれど、すごく温かかった。一人っ子だけに、1人に留守番しなきゃならないこともある。そんな時でもいつも一緒にいた。色んなものに噛みつくから、よく俺に怒られていたっけな。とにかく、人の話をよく聞く犬だった。俺が泣いているとずっとそばにいてくれて、俺の顔を見上げていた。
忘れられないシーンがある。俺が大学進学のために上京する2009年4月3日。
憧れの東京に行けるという期待もあったが、長く住んだ我が家を離れ、1人で暮らさなければならないということに、どうしようもない不安を抱えていた。特に上京寸前は家族の仲が相当良かったこともあり、悲しかった。俺はその日、IPPEIさんとの約束があって新幹線の時間も決めていたのに、なかなか家を出ることができなかった。パー君の側で、2時間弱、ずっと泣いていた。不安で、寂しくて、悲しくて。自分が決めた道だけど、どうしてもそんな思いが拭えなかった。最初はいつものように「大丈夫?」という様子で見ていてくれたが、次第に「いつまで泣いてるんだよ」って伏せてしまった。そして、俺は家を出た。
たまに帰省すると喜ぶわけでもなく、めんどくさそうに顔を上げずに目だけ動かす。それでも、まるで何事もなかったかのように、普通に振る舞ってくれる。俺に寂しい思いをさせないようにしていたのかもしれない。この前の年末年始に帰省した時も、いつもと変わりない様子で俺を迎えてくれた。俺たちがメシを食っていると「よこせ」とずっと吠えているいつもと変わらない光景。確かに、年々身体は弱っていき、最近では全く歩けない状況ではあったが、元気なことには変わりなかった。亡くなる前日も、同じように。いつもと変わらない日々。
それが、朝起きると既に冷たくなっていた。夜寝ている間に、天国へと旅立った。
亡くなったこと自体ももちろん悲しいが、それ以上に彼が俺たちに遺してくれたものを考えると、本当に涙が止まらない。わからない人には「たかが犬の死で・・・」と思われるだろうが、俺にとってはかけがえのない家族なんだ。人間か犬かという違いだけで、血は繋がっていなくても、俺の大事な弟であることには変わりない。約16年間、ずっと一緒に過ごしてきたんだ。悲しむなと言われる方が無理な注文だ。いいヤツだった。死ぬ日まで自分で選びやがって。俺が新しい会社でもうまくやっていけるだろうということを確かめて、両親がたまたま月曜日に有休をとっていたことを見越して、4月からの新生活に影響が出ないよう1ヶ月の時間をくれて。もうあと3週間生きれば16歳の誕生日を迎えられたのに、「関係ない」とでも言うように。最も迷惑をかけない日を選んだように思えてならない。
彼がY氏に託したメッセージ。パー君にしかできないことだった。アイツしかこの事実は知らないんだから。両親だって知らないし、友人だって誰1人知らない。高校時代、俺が悩んでいた背中をずっと見てきた彼だからできたことだった。言葉が話せたら直接言いたかったんだと思う。残酷でありながらその居心地に慣れてしまったその十字架を外さないと、俺が次のステージに行けないことをわかっていたんだと思う。そうなんだよ。俺は隠居生活をしようと思っていたんだ。俺がこの世に生まれてやるべき使命は果たした。残りの人生はエキシビジョン・マッチ。つまり、勝敗関係ないゲーム。闘うことはやめ、自分の楽しみのためだけにゆっくり暮らしていこう、と。結婚もしたいけど、またいつものセリフが出て結局はできないだろう。「俺は嫌われ者だ。俺と一緒になっても幸せにはなれない、だから身を引こう。」って。こんな俺を見て、歯痒い思いをしていたんじゃないか。だから、ショックを与えてでも、目を覚まさせないとダメなんだって感じていたんだと思う。一番の理解者だったんだよね。
本当に感謝の想いしかない。カッコ良すぎるよ。生き様も、死に方も。そして、俺に後追い自殺をさせないように、あんなメッセージまで託しやがって。
一夜明けて25日月曜日。最期のお別れをすることになった。市の火葬場に遺体を置いて帰る時、涙が止まらなかった。最後に交わした握手。よく握手していたっけな。冷たかったけど、確かにいつもの変わらない感触だった。約束したよ。もう自分に言い訳して、過去を塗り替えて生きるのはやめるって。本当に何も無くなって、ゼロからのスタートになるけど、決して諦めないで前を向いて生きていくって。
それから、もう偽悪者を演じるのもやめる。カッコイイと思って、自分の持つ優しさを隠すようにして生きてきた自分がいた。誰かを助けたくても、「ガラじゃない」と手を差し伸べることをしなかった自分がいた。偽善者と言われるのを恐れるあまり、悪役を演じ続けてきた。本当はもっと人を愛し、人を助け、誰もが幸せになれるような世界にしていきたいって思っているのに。人が大好きなのに人嫌いのフリをして、もっと一緒にいたいのにクールなフリをして、泣きたいのに人前で涙は見せないと意地を張って。そういうのもうやめなよって、言われている気がしたから。
本当に、俺の人生を見守っていてくれたんだね。ありがとう。藤浪家に来て、家族の一員として役目を果たしてくれて、ありがとう。それまでバラバラで仲が良かったとは言えない家族が、パー君が来てくれたことによって、温かくて仲が良くて心から自慢できる家族になりました。楽しかった。感謝しています。
しばらく姿を見なくなるけど、「さようなら」なんて思ってないよ。自由に動けるようになって、ずっと一緒にいてくれてるじゃない。物理的な距離に縛られなくなってさ。
いつでも会えるさ。そして今でも生きている。俺の心の中で、ずっと生きている。これからも、よろしくな。
19時半くらいからこの文章を書き始めて、途中で思い出しては泣き、感謝しては泣き、ってずっと繰り返して来たら、こんな時間になっちゃった。今も涙を流しながら、1つ1つ言葉を選んで書いている。俺にとって、初めての身内の不幸だから余計にね。幸い、家族も、近い親戚も、大事な友人もこれまで亡くさずに生きてこれた。だから、初めての身内の死に直面し、いつ立ち直れるのか本当にわからない状況。今朝も仕事に行ったけど、泣いちゃって仕事にならない。それでも電車が来た時はいつも通りやってるけど、通過電車待ってる時とかお客さんに気付かれないようにずっと泣いていた。寂しさと感謝が入り混じりながら。
でも、いつまでも泣いていたってアイツは喜ばない。根拠のない自信がみなぎるバカな兄貴の姿を見たいはずだ。もう少し待っててくれ。そう遠くないうちに、立ち直ってみせる。
もしできるなら、人間の姿になって、俺に近付いて欲しい。話したいことはたくさんあるんだ。その時までに、美味しいパン屋でも探しておくよ。
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