探し物をしていて、ふといつも開けない引出しを開けた。
そこには、1冊のノートが入っていた。
俺は友人を部屋に招待すると色々なものを見せている。かつて自分が出版した本やコレクションの数々を。決して自慢したいのではなく、せめてもの歓迎の気持ちからだ。
しかし、このオレンジ色のノートだけは誰にも見せていない。
実家にいた頃から、親にすら見られないように、カギのついた引出しにしまっておいた。引越の時も、厳重に管理して何とか持ち出してきた。
これは墓まで持っていくつもりのノートなのだ。
俺に万一のことがあったら、中を見ずに棺桶に入れてほしい。
別に、麻薬の購買ルートが書いてあるわけでもない。
歴代の好きな女の子の名前が書いてあるわけでもない。
誰かの悪口を書き綴っているわけでもない。
言ってみるならば、俺のレジスタンスの真髄が詰まったノート。
実は、17歳の時に出版した本「AVANT-GARDE ~Case of fqt~」の書き下ろしの部分、つまり「十七歳の地図」の部分は、このノートをもとにして書いたのだ。いわば、十七歳の地図のオリジナルバージョンだ。
本当に久しぶりだった。このノートと向き合うのは。
最近はすっかりこの存在を忘れていた。
人の「死」は一度きりではない。
肉体的な死は一度しか訪れないのだろうが、精神的な死は何回か訪れるのだろう。
1回死んで、生まれ変わるのだ。そこから、第二の人生が始まる。
「死ぬ気になって」「死んだつもりで」と人々は簡単に口にするが、精神的な死だってそんなに楽なものではない。
俺は、15歳になったばかりの冬、死んだんだ。
絶望があったわけではない。むしろ、その逆だったのかもしれない。
雷に打たれたような衝撃だった。そこから俺の人生は変わったのだ。
もちろん、それはただ1つの出来事だけではない。人生、必要な時にはいくつも物事が重なるものなのだ。
とりあえず、俺はその時の感情や発想を文章に残すようになった。
しかしながら、実をいうと、「自分で書いている」感覚がない。
よく「この前のブログ(Twitter)に書いてあったことなんだけど・・・」と言われても、Davyという男はにわかには思い出さないだろう。
記憶力が無いだけかもしれないが、どうもそうではない。
今だってそう。考えて書いているわけではない。
気付いたら、手が勝手にキーにタッチしているのだ。
誰かによって書かされているとしか思えない。
だからこそ、自分のブログなりTwitterなりを読み返してみて驚くことが多い。
「俺、こんなこと書いたっけ?」
人生とは不思議なものである。20年目にして、さらにその奥深さに感動している。
さて、話を例のノートに戻そう。
このブログやTwitterよりもさらに奥深いことが書いてある。公にはできないし、したいとも思わない。
そのノートの存在をあえてここで言う理由などない。
知られたくなければ、言わなければ良い話だ。
ただ、俺に万一のことがあった時、誰かが俺の親に言ってほしいのだ。
「このノートも棺桶の中に入れてあげて下さい」と。
そして、俺はその証拠をこうして遺言という形で残している。
多分、俺は当分死なないと思う。まだまだやるべきこともあるし、このままでは終われない。
でも、世の中、うまくいかないことも多い。
中途半端な形で人生を全うせざるを得ない人も少なくない。
もし自分がそういった事態に陥った場合、最後を汚したくない。
だから、様々なケースを想定しているだけである。
人類は、世界各地で様々なレジスタンス運動を繰り広げてきた。
圧政に抵抗するものもあれば、他国による占領に抵抗するものもある。
でも、これらをよく見てみると、1つの共通した真実にたどり着くのではないか。
人は、いつだって、「自由」を手に入れるために、レジスタンスをしてきた。
俺も例外ではない。その通りである。
いや、現代の日本では、「例外」に入るのかもしれない。
今さら、俺がこれまで繰り広げてきたレジスタンスの数々を武勇伝として自慢しようとは思わない。
それは、過去の執筆したものを見てもらえれば良いわけだし、当事者だけがわかっていればいい。
俺がしたいのは、ただ1つ。
過去のレジスタンスの歴史を自分で噛みしめることで、この精神を永遠に忘れないようにしようということだ。
いつも右の手首にしているリストバンド。ずっと俺と行動を共にしてきた。
これを見るたびに思う。屈してはいけないと。
あのリストバンドをするということは、常にナイフを握りしめているようなものなのだ。
さすがに銃刀法違反で捕まっては困るし、扱いに困るので、実際にナイフを握りしめて出歩くことはしない。
その代わりに、あのリストバンドをしているのだ。
負けそうになることがある。
無難な道に逃げたくなることがある。
実は、最近もそうだった。
具体的に何があったかは言わない。それは、俺自身がわかっていればいい。
だけど、言い訳を並べて、レジスタンスとは逆方向に流されようとしていた。
その醜態をここに晒し、懺悔しようと思う。
「自由」「孤独」「レジスタンス」
これらは常に3点セットだ。どれかが欠けると、次第にすべてが崩れていく。
しかし、「孤独」という表現はわかりやすく一般に伝わりやすいものの、真意ではない。
「自由」「LONELY★WILD」「レジスタンス」
この方がしっくりくる。俺としては。
このナイフを捨てれば、楽になれることはわかっている。
しかし、それでは、15歳の時の死を無駄にしてしまうことになる。
そんなことは許さない。少なくとも、あのノートに書き綴った当時の俺は、許さない。
俺はどこを目指しているのか。
俺が憧れる俺でいたいのだ。
「本物の男」がカッコイイと憧れる男でいたいのだ。
東京に出てきて、当時の俺が本当に掴みたかった自由を手に入れた。
誰にも縛られず、何にも縛られず、本当に自分のやりたいように生きている。
もちろん、まだまだ欲しいものは手に入らないし、このレベルで満足しているわけではない。
しかし、数年前想像していたものよりも、はるかに高いレベルで実現できているということは事実だ。
それを俺は、「Davyスーツがフィットする」という表現で表すのだが。
実は、今日の文章は誰かに何か言いたいわけではない。
自分に対して怒っているのだ。
自由を捨てようとした自分に対して。
自分を安く売ろうとした自分に対して。
もし、もう1人の自分がそこにいるなら、俺はそいつをぶん殴っていただろう。
甘い欲望と引き換えに失うものを考えろ、と。
人生は一度きり。だからこそ、自分の理想のストーリーを描き続けなければならないのだ。
俺の理想なんて、他人から見ればむしろJunkyかもしれない。
勝手に突っ走ろうとした甘い欲望の方が、他人から見れば魅力的なのかもしれない。
でも、それでも、家族が寝静まってからベランダに出て星空を見上げたあの夜の夢を壊したくないんだ。
親不孝者かもしれないけど、俺には俺の流儀がある。
親孝行なら、別のやり方でもっとできるはず。
こうやって、昔からあえて不器用な道を選んでいる。
でも、その不器用さが、俺の流儀なのかもしれない。
例え手が血だらけになったとしても、このナイフ、離さない。
真っ赤な手で拳を作って、目の前のガラス、叩き割ってやるよ。
約束の夜に訊く。
俺、これで、いいんだよな?
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