「学ぶ」とは何か ~現代版・学問のすすめ~


俺はごく稀に「ブレない男」だと評されることがある。
ミクロな視点で俺を追っている人間にはわかるかもしれないが、細かい部分ではブレが生じることもある。ただ、先のように評する人は強ち間違いではなく、大きな根幹の部分ではブレは生じない。
なぜか。
物事に対する定義づけがきちんとできているからだ。「○○とは何か」「○○はどうであるべきか」こういった自分の中での定義がきちんと決められているからこそ、重要な局面では原理原則に従って行動できる。このコラム内での「何か」シリーズは、DavyStyleの根幹に関わる主義主張を明示するものである。

俺は過去にも、「何か」シリーズを著してきた。

自己分析とは何か (2011.09.15)
http://davystyle.com/archives/1022

さて、本題に移ろう。

IPPEIさんが素晴らしい記事を書かれたので紹介したい。この記事に感化されて、今回筆をとるに至ったのである。

夢と希望の押し売り(大学卒業前に思うこと)
http://ippeintel.com/archives/1338

中でも、この部分について考えさせられた。(以下、引用)

 

さて、こんな話の枕は置いといて、今日のトピックはずばり「文系・理系・体育会系 ― カテゴライズ好きな僕たち」である。

文系って何してるの?
何のために、何を学んでるの?
というか、そもそも学んでるの?


これは僕が実際に耳にした、理系学生が文系学生に対して放った言葉である。このような言葉はあまりにも頻繁に聞くし、もはや「またか」という感じで以前ほどは何かを感じることもなくなったが、それでもやはり、このような言葉の蓄積が文系学生を「文系コンプレックス」に陥れているのかと思うと、ちょっと待てよと一石を投じたくなる。待てよというのは、このようなことを言う理系学生に対してではなくて、文系コンプレックスなるものを抱いている文系学生に対してである。そんなもの抱くことないじゃないかと。

(中略)

そんな背景もあって「何を学んでいるの?」というような問いに対して、曖昧な答えしか出せない文系は僕も含めて多いと思う。だけど、無理もない。曖昧な動機で進学しているから、自分でも一体何を学べばいいのかわからない。

確かに、この4年間このようなシチュエーションは多かった。その度に俺が思っていたことがある。

「学ぶ」だけなら、意味はない。

「勉強する」ことの意義を趣味として捉える、あるいは感情的なもので捉えるとしたら、それは有意義なものだろう。それは、認める。
しかしながら、他者の視点から自らの「学び」を見た時、勉強したことそれ自体が評価されるのだろうか。
言い換えるなら、学んだことそれ自体が何か社会に対して影響を及ぼすものであるのか。

難しい話になってしまったが、つまりは「学ぶ」という事実(経験)は威張れるものでも何でもないというわけだ。ただ知識を吸収しただけに過ぎず、それ自体が財やサービスを生み出すわけでもなく、社会的貢献にあたるものでもないということ。さらに言うなら、知識を吸収しただけでは、生活のクソの役にも立たないというわけだ。

静高時代、よく見受けられた光景。
「ボクちゃん、この前の日曜日は10時間も勉強しちゃったもんね!」
「オレっち、この前のテスト、上位者表に貼りだされたぜ、スゴくね!?」

それをニコニコしながら、腹の中で「バーカ」と思っていた俺。
まぁ、大学受験という目標があり、そのプロセス上での出来事だと思って大目に見よう。
しかしながら、大学生というのは、財やサービスを生み出さなければ評価されない立場の1つ前のステージである。この期に及んで、「ママ、ボクね、前期の成績A+が5個もあったんだ~!褒めて、褒めて!」の世界にいるというのは、何とも言い難い呆れの境地である。

何が言いたいか。
社会的に意味がある「学び」というのは、知識を吸収するということではない。学んだ知識を、実生活に役立つよう還元してこそ意味があるものであるということだ。

例えば、俺は大学で保険の専攻である。保険学やリスクマネジメント論を学んだ。それ自体には1円の価値もない。
しかし、その知識と現在各社で提供されている保険商品の知識を組み合わせて、各年代・それぞれのニーズに応じた最適の保険商品を提案できるとしたらどうだろうか。有償無償関係なく、それは社会的に価値のあるものである。友達に「○○海上の○○という保険に入ったらいいんじゃない?」などと言えたら、その友達に貢献したことになる。
これこそが、意味のある学びなのだ。

そして、知識を吸収するプロセスにおいても、最近の大学生は「意味のある学び」の要素が欠けている。
インターネットや本(教科書)で得た知識だけを活用して、レポートや論文を書く人間が多い。机上の空論とはまさにこのこと。図書館の中の知識だけでプロダクトする作品は、読む価値はない。ただ単に本の概要を書いただけに過ぎない。

俺は違う。現場主義を徹底している。
ある程度インターネットや本でペーパー上での知識を吸収してから、実際に現場に足を運ぶ。街を歩く。商品やサービスが対象物であるなら、実際に利用してみる。少なくとも、実際に販売されている商品のパンフレットくらいには目を通す。
そして、自分の目と耳で確かめた「知識」を、もう一度ペーパー上の「知識」で確認し、照合してみる。一致する所もあれば、実際とは違う場合もある。レポートに書くかどうかは別にし、感覚として身につける。それこそが、自分の中に蓄積される「知恵」となる。
某友人の論文の手伝いをした時に、論文に必要ないとは思いつつも、あえて交通費を使い現場に足を運んだ。彼がその意味を理解しているか否かはさておき、あれは絶対に必要なことなのだ。文章を書く時の質感・ニュアンスに影響してくる。商品のパンフレットを見ると、いかにも相当魅力的なものであるかのように描かれている。しかし、実際にそれを利用したり現場に行くと、パンフレットには記載されていない問題点や欠点が見えてくる。それらを感覚として、作品にフィードバックできるのだ。

「学び」は大学だけでするものではない。実生活上でも学ぶことはたくさんある。
鉄道の本を10冊読むよりも、1時間ラッシュ時にホームに立っていた方が学ぶことは多い。数字には表れない実情が見えてくる。

1つ例を挙げて説明しよう。
鉄道の混雑率について。朝の通勤通学ラッシュは非常に電車が混雑する。国交省はそれを「混雑率」の形で統計に表している

混雑率データ
http://www.mlit.go.jp/common/000226765.pdf

例えば(実例に沿わない形で申し上げるが)、混雑率160%の路線が複数あるとして、6両編成が主体の路線と、15両編成が主体の路線が存在するとする。時間帯による偏りや本数・種別等を同じ条件とした場合、体感的にどちらの路線の方が「混雑を回避できる可能性」が高いだろうか。
この場合、15両編成が主体の路線の方が混雑を回避できる可能性が高い。各駅の階段(出口)の位置にもよるが、基本的に客は階段付近の車両に集中し、階段から遠い車両に好んで乗る人は少ない。JRや多くの私鉄の場合、1両の長さは20m。15両対応ホームで、ホームの真ん中に電車が停まる場合、そして出口階段がちょうど真ん中1ヶ所にしかない場合、6両編成(3・4号車の間に階段)の電車だと運転席の方まで移動したとしても移動距離は約60mで済む。一方、15両編成(8号車の中心に階段)の電車だと運転席の方まで移動すると約150mも歩かなければならない。これを嫌う客が多いので、主要駅(乗降客が多い駅)の階段から遠い車両は、比較的混雑率が低い場合が多いのだ。

こういったことは、毎朝ホームに立っていれば自然と見えてくる。国交省のデータといくらにらめっこしても、実情は見えてこない。
だから俺は、現場主義を徹底しているのだ。教科書で知識を吸収するよりも、街を歩いて「知恵」を見出すことに注力しているわけだ。

今回の結論。
本や研究室で知識を吸収しただけでは、真に「学んだ」とは言えない。現場を見て実情を把握し、教科書上で得た知識と融合しながら、社会的に意義のある形で実生活に役立つよう還元して初めて「学んだ」と言える。ただ授業に出た、ただテストで高得点を挙げただけの連中が威張るなってことだ。そんなことでデカい面してるのは、ダサいんだよ。生活に役立つ知恵、「情報」を出せと言っているのだ。

こういうと文学部が不利なように聞こえるかもしれない。だが、それは違う。
歴代の東京都知事を見ればわかる。現知事の猪瀬直樹氏、前知事の石原慎太郎氏、その前の青島幸男氏、皆作家だ。
文学で得たことを都政に還元し、都政で得たものを自らの作品に還元している。猪瀬さんは副知事時代、そこで得たものを活かして数々の作品を生み出した。
やり方次第では、机上の空論のような学問でも、机上の空論で終わらせずに済むことはできるのだ。

あの福沢諭吉も「学問のすすめ」の中で、こう述べている。

学問とは、唯むずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽み、詩を作るなど、世上に実のなき文学を云うにあらず。これ等の文学も自ずから人の心を悦ばしめ、随分調法なる者けれども、古来世間の儒者、和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべき者にあらず。[省略]
畢竟その学問の実に遠くして、日用の間に合わぬ証拠なり。されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。(7頁)

文字を読むことのみを知て物事の道理を弁えざる者は、これを学者と云うべからず。所謂論語よみの論語知らずとは即是なり。我邦の古事記は暗礁すれども、今日の米の相場を知らざる者は、これを世帯の学問に暗き男と云うべし。数年の辛苦を嘗め、数百の執行金を費して、洋学は成業したけれども、尚も一個私立の活計を為し得ざる者は、時勢の学問に疎き人なり。是等の人物は唯これを文字の問屋と云うべきのみ。その功能は飯を食う字引に異ならず。国のためには無用の長物、経済を妨ぐる食客と云うて可なり。故に世帯も学問なり。帳合も学問なり。時勢を察するも亦学問なり。(17頁)

今、我々は、「学生」の本分を改めて弁えるべきではないか。


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