新しい働き方

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今時、「新人類」という言葉が再び日の目を見ることがあるとすれば、間違いなく俺は「新人類」のレッテルを貼られるだろう。
今はそれが「ゆとり世代」という言葉に置き換わっているだけなのかもしれないが。

確かに、俺は「新しい働き方」というものを模索しているのかもしれない。
会社と自分の関係。主従関係でもなく、敵対する存在でもない。
相互に利用し合い、その事により相互にメリットを得られる対等な関係に持ち込みたいのかもしれない。
本来はそうであるべきだ。少なくとも、労働契約においてはそのようになっている。労働者は自分の時間を切り売りして労働力を会社に提供し、会社はその見返りとして報酬を労働者に支払う。契約において上下や優劣は存在しない。ところが歴史を振り返ってみると、労使関係はどうしても使用者優位にありがちだ。労働者保護の規制が強められた現代でも、その傾向にあることは間違いないだろう。仕方ないことではあるが、俺は少しでもそんな風潮に抗ってみたい。自分の心の中ではそうじゃないんだって言い張りたい。そう思うが故に、常人では信じがたい行動に出ることもある。

リアルで俺に付き合いのある人からよく言われることとして、「上の役職の人にビビらない」ということがある。大学時代の政治家の方々との交流が俺を鍛えてくれたのかもしれない。とはいえ、別にナメているわけでも、反発しているわけでもない。経営学を少しかじった者として、割り切って考えているからだ。

会社に限らず、組織というものは指示命令系統がある。船頭ばかりが多くても、船は進まない。そこで、特定の人に役職を与え、指示命令系統を体系づけることで、職務を円滑に遂行できるようなシステムにしている。役職を持っている人は、部下にあたる人に対して指示命令できる一方で、彼らのパフォーマンスに関しても責任を持たなければならない。だから、上司に注意を受けたからといって、その上司を恨んだり憎んだりすることは筋違いであり、それが彼らの仕事なのだ。一方で、その注意というものは、人間的にダメだとレッテルを貼られているものではなく、職務の遂行においてベターな選択肢を提示されている、あるいは今後起こりうるリスクを減らそうとして頂いているものに過ぎない。逆に言えば、人格攻撃や職務とは関係のないクレームの類については聞く必要はないし、目に余るようであれば何らかの対抗措置を取ればいい。というのも、役職というものは、会社の職務の遂行のための指示命令系統の1つの役割に過ぎず、人間的な上下や優劣とは全く関係ないからである。上司を尊敬するかどうかは、役職ではなく、1人の人間としてリスペクトするかどうか。少なくとも、今の俺は自分の上司にあたる方を、役職を持っているからという理由ではなく、1人の人生の先輩としてリスペクトしている。僭越ながら、1人の人間として魅力のある方々だと思っているし、面白いなと思って見ている節がある。

もちろん、ゴマをするようなマネもしない。媚びるのが嫌いな性分である以上に、システム的に意味が無いから。1人の人間としてのリスペクト。これだけで十分だと思っている。

残業するかしないかという観点においても、自分なりに信条がある。基本的には就業規則で定められた7時間半とそれに付随する時間(通勤時間など)のみを、会社側に労働力として提供していると考えている。平日5日の7時間半を提供することにより、自分の生活を支えられるだけの報酬を頂いていると考えている。ただし、それを超過して労働しないと会社側や共に働く仲間に迷惑をかける場合、残業することで翌日以降の業務が円滑になる場合などにおいては、自分の判断と上司の指示の下で残業するようにしている。

俺にとって、会社や上司はクライアントなんだ。彼らの要望する仕事を請け負い、作品を提供する。決して「使われている」なんて思っちゃいない。クライアントの要望に応えるだけ。いかに早く仕上げるか、いかに精度の高いものを仕上げるか。まだまだ知識も技術も備わっていないが、それを可能な限り求め続けていくのが、俺の「会社での」仕事だと思っている。それが俺なりの「愛社精神」だ。

なぜ、わざわざ会社と自分の関係を明確に規定する必要があるのか。俺の場合、その事によって、自分のライフワークと会社での仕事をセパレートしたいからだ。
俺の主な収入源は、会社に労働力を提供することで発生する、会社員としての給料だ。だが、俺の本業(ライフワーク)は、アーティストであり、作家だ。
俺はアーティストとして生き続けるために、あえてこちらを主な収入源としての仕事に選ばなかった。

昼間、同僚と話していてそのヒントを得た。自分が言ったセリフから。

「カネで動くようなヤツは、最低だ。」

収入を得るということは、クライアントに評価される必要がある。クライアントの要望に従う必要が出てくる。要望に応えてはじめて報酬を得られる。
もし仮にアーティストが本業だとすれば、継続的に収入を得るためには、クライアントが望む作品に変えてプロダクトせざるを得なくなる。たまたま自分の描きたい作品と世の中のニーズが一致している場合はいい。自分の描きたいものを描くことで、収入を得られるとすればそんなに幸せなことはない。ところが、一致しない場合、2つの道のうちどちらかを選ぶことになる。自分の描きたいものを優先することで、収入を得られなくなるリスクを覚悟するか。収入を得るために、自分の描きたいものを捻じ曲げるべきか。このジレンマに苦悩し、自ら生命を絶ったアーティストを俺は何人も見てきた。自分もそうなるんじゃないかって、日々怯えながら活動を続けていくとしたら、自分の職業が嫌いになるんじゃないかと思ってね。誇りを持てなくなると思うんだ。

だから、俺はアーティスト活動はカネの絡まない立場でやっていたい。収入やスポンサーを気にせず、自分の創りたい作品を、自分の思うがままにプロダクトしていきたい。たとえそれが他人に全く評価されないものでも構わない。「書きたいから、書く。」それでいい。

会社員としての仕事については、俺の思想信条とは全く別の所でやっていることだから、評価を受けることについては問題ない。クライアントの要望に応えることについても、心理的な抵抗はない。したがって、そちらを主な収入源にしても全く問題ないというわけだ。一方で、アーティストとしての評価を個々人が勝手にすることは問題ないとしても、それにより俺の生活のレベルがアップダウンすることは避けたい。生活レベルを下げたくない一心で、書きたくないものを書いたり、書きたいものを封印せざるを得ない状態にはしたくない。そうなったら、それこそ「カネに使われる」状態となる。カネで動くようなアーティストは、風上にも置けない。

万が一、会社がアーティストやめろと言ってきたら?それが仕事に支障をきたすようであれば、そうならないように改善する。しかし、それとは全く関係のない立場で強要されるとしたら、俺は会社の方を切るだろう。俺は「カネを使う」人間であっても、「カネに使われる」人間じゃないってことさ。たとえ貧しくなってでも、守らなきゃならないものってあるじゃない?

俺は、夢を見せたいんだ。サラリーマンに絶望して欲しくない。アーティスト志望のヤツって、フリーターや無職が多い。だからこそ、社会の底辺みたいなレッテルを貼られてしまうことがある。でも、そうじゃない生き方もあるってことを、世の中に提示したいんだ。二足のわらじでいいじゃないか、と。サラリーマンやってたって、アーティスト活動は続けられる。むしろ、フリーターより収入が高く生活が保証されていることを利用して、従来とは違う作品をプロダクトできるかもしれない。プロだろうがアマだろうが、自分が考えたり思いついたりしたことをカタチにしてプロダクトできる人間は、皆アーティスト。肩書きは、自分で決めるものだろ?サラリーマンがアーティストやるとどうなるか。俺は自分の人生をもってそんな実験を重ね、世の中に訴えかけたい。だから、例えば就職したくないけど就活しなきゃならない若者とかいたら、俺の姿を追っていてほしい。俺も君らと一緒だったから。「社会に飲み込まれるのはゴメンだ!」って叫びながら、それでも食っていかなきゃならなかったし、アーティスト続けるためにも価値あるものを追っていたかったから、とりあえず就職した。俺の背中を見ていてくれ。

今日、そんなこと考えながら過ごしていたら、なぜこれまで彼女を作らなかった(作れなかった)のか、なんとなくわかった気がする。同じなんだ。俺に対する評価を相手がどう持とうかは自由だ。そこに関しては関心が無い。だけど、告白に対するジャッジメントというものは、俺自身の生活に直接フィードバックしていくものだ。他人の評価で人生左右されたくなかったんだろうな。他人の評価で自分の人生が決定づけられるくらいなら、1人でいた方がマシって思っていたんだ。だからこそ、最後の一歩を踏み出せなかった。結果を聞くのが怖いから。ガン宣告を受けたくない患者の気持ちに通じるものがある。

最後の壁はそこだ。俺自身の問題。
でも、俺はジャッジメントを避けて生きる人生が、正しいことだとは思わない。変わらなくちゃいけない部分。傷つくべき時にきちんと傷ついておかないと、新たな境地は開けない。

「リスクをとらなければ現状維持すら不可能」(本田直之)

そして、時は来た。最後の壁を崩してもいい、真正面から傷ついてもいいと覚悟できるくらいの人に出逢えた。あとは、雲の切れ間を狙うだけだ。
これまでとは違った作風のストーリーも描ける男になりたいんだ。このブログは、俺の日記やエッセイのようでいて、実は1つの物語。現実世界で起こっている、実に興味深い小説。主人公がリアルタイムで書いているという点では、これまでにない斬新な切り口だろう。

人生はドラマや映画みたいなもの。死ぬ間際、監督の最後の「カット!」がかかった時、「面白かったな」「いい夢見たな」って言えるかどうか。人生に勝敗が存在するとしたら、そこにあるんだと思う。常識人ぶって、自分のやりたいことや興味あることを犠牲にして、「普通の人」として生きていく人生は俺はイヤだ。奇抜で斬新でアバンギャルドで・・・それでいて、ちょっとロマンチックな、そんなストーリーがいい。

人生は旅だから。18で実家を飛び出し、今は東京で働いているけれど、俺にとっては長い長い旅行の道中でたまたま職を見つけて働いているに過ぎない。高3の時、自分でホテル1週間とって大宮の予備校に通うために合宿したあの時と今の生活は気持ちとしては全く変わらない。何かを探しに長い長い旅に出ているだけなんだ。「旅行に行きたい」って気持ちが静岡にいた時ほど無いのは、きっと今が旅行の最中だからなんじゃないかな。

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