Davythm Forever

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ご無沙汰のブログです。怠惰なもので、Twitterだけで片づけていた。

「デイビズム」のスペルを「Davyism」にしようか、「Davism」にしようか悩んだが、本家「Guitarhythm」と同じ感じで、「Davythm」にすることにした。この言葉は、DavyStyleとほぼ同義語だが、DavyStyleが行動面に重きを置いているのに対し、「Davythm」は精神面・信条面に重きを置いている。どちらも同じように大事であり、DavyStyleはDavythmによって支えられていると言っても良い。これをあらかじめ書いておこう。

AKB選抜総選挙のJCBホールのモバイル会員での抽選が外れた。あとは、一般販売に賭けるしかない。日曜日の10時。ここでネットがつながらなければ、試合終了だ。そうなった場合は、映画館。六本木ヒルズに駆け付けたいと思う。

俺の中でのAKB熱は衰える所を知らず、部屋には色々なものが増えている。毎日テンション高いよ。外に出ると途端に低くなるけど(笑)

今までにカワイイ女性は何人かいた。俺が好きになったアイドルは何人かいた。ゆうこりん然り、アッキーナ然り、新垣結衣然り、ローラ・チャン然り。でも、どれもそんなに入りこむほど長続きしなかったんだよね。だから、今回のAKBはレアケースだと思う。AKBに注目し始めて、ちょうど1年と1ヶ月くらい経つかな。そこそこの知名度はあったが、そんなに爆発的な人気ではなかった頃。シングルで言えば、10年桜と涙サプライズの間くらい。もちろん、その前からAKBの存在は知っていて、「会いたかった」とかは静岡にいた頃からは知っていたが、メンバーの顔と名前が一致したのはまいまい(大島麻衣)くらい。ただ、初めてテレビで見たのはゆうこ(大島優子)かも。彼女が子役時代、「Love&Peace」というドラマに出ていたみたいだから。その時は誰かわからなかったけど。

ロックを叫んでいる俺が、なぜ大衆迎合的なアイドルグループにハマったのか?いや、グループ自体は大衆迎合的でも、メンバー1人1人は決してそうではないのだが。メンバー1人1人はかなりニッチな部分に対応しているのだが。マトリクスを書いてみて、X軸が(女の子らしさ⇔ボーイッシュ)、Y軸が(大人っぽさ⇔子どもっぽさ)だとすると、そこに表わされる4面全てに誰かがいて、例えば極右の少し上にとも~みがいて、極右の少し下に亜美菜がいて、極左の少し上に才加がいて、極左の少し下に佐江がいて、Oの少し右にあっちゃんがいて、Oの少し左にゆうこがいて・・・ちゃんとバラバラでちりばめられているから、ニッチな所にも対応して、価値観が多様化している現代社会で勝っていくのだと思う。もちろん、世論の最大公約数的なものはOに近いから、あっちゃんとかゆうことかが大量に票を稼ぐことにはなるのだが。そういう意味で、メンバー1人1人は大衆迎合ではない。しかし、それがグループになると、大衆に支持されることになるのだ。

そういう大衆迎合的なものを嫌っている俺がなぜAKBにハマったのか?もちろん、カワイイ女の子だからとか、一生懸命頑張っている姿が好きとか、そういう要素もある。しかし、よくよく考えてみると、自分には無いものを求めているのだと思う。

だからこそ、俺はAKBのような生き方はしたくない。人気が上がるにつれて、そこにジレンマが生じてくる。例えば、古参の最初から応援している人にとっては、グループが成長してメディアにもバンバン出てくれるのは嬉しいけど、それによってチケットが手に入りにくくなったり遠い存在になってしまうような気がして寂しい気持ちがあるだろう。その寂しさが苛立ちに変わり、ファンをやめてしまうようなことになるかもしれない。一方で、人気が爆発してからファンになった人たちは、ブームの間は飛びついているが、バブルが弾ければ手のひらを返すように反応しなくなる。そして、周りに誰もいなくなる。多分、AKBの子たち自身は、そのことには気づいているだろうし、そうならないための心の準備はしているだろう。だけど、俺はこんな生き方はしたくない。

Davyにどれだけのファンがついてくれているのか、いやそもそもファンがいるのかはわからない。それは俺が判断すべき問題ではない。しかし、もしファンがいてくれるのだとすれば、俺のファンにはAKBの古参ファンのような思いはさせたくない。いや、AKBみたいな良い子なら良いが、俺が例えば人気が上昇するにつれ、人柄が変わってしまったり、何か最大公約数的なものを求めるようになったり、そんなことがあってはならない。

ファン心理だけではない。俺のキャッチフレーズ「1フジ、2タカ、3Davy!いつでも俺はNO.1!!」・・・じゃなくて、「絶望からのレジスタンス」。これもROCKからきたものだ。ROCKというのは、レジスタンスの生産物だ。70年代、いやもう少し前か、政治への反発・権力の反発を歌詞にした。アナーキーなヤツも結構いた。そんなレジスタンスを表明したのは、学生運動もそうだが、その後はROCKだ。俺は、(日本なら)80年代のROCK、つまりはパンク・ニューウェーブ的なROCKの影響を強く受けているのだが、ストレートな言い回しではないレジスタンスを叩きこまれている。言葉だけでなく、音なり何なりそういったものでも表現する、むしろ暴言の嵐のROCKよりも、さらに強烈かもしれない。俺のレジスタンスはそこから学んだ。

そんな「レジスタンス」を叫んでいる俺が、メインストリームを歩くわけにはいかない。メインストリームを歩くということは、そもそもレジスタンスなどそこには介在しないのだ。レジスタンスは「絶望」から、つまりはアンダーグラウンドから叫ばなくてはならない。大衆の前に出てきてやるべきことではないのだ。マクドナルドになったらレジスタンスなんかできやしない。看板もあるだかないだかわからんようなあまり人に知られないアンダーグラウンドな所から叫ばなければならない。つまり、「知る人ぞ知る」というもの。俺は、大衆には評価されたくない。「知る人ぞ知る」Davyでありたい。わかるヤツだけ価値をわかってくれればいい。質的な意味では売れたいが、量的な意味においては売れたくない。

よく、「政治家にならないの?」と言われる。正直、やりたい気持ちも無くはない。しかし、「レジスタンス」「ROCK」を貫きたい所からすれば政治家のようなメインストリームな仕事につくわけにはいかない。そもそも自分が権力になってしまったら、どこにレジスタンスすれば良いのか?ただし、どうしても抑えきれなくて政治家になる可能性も否定しない。あまりに日本がダメであり続けた場合。だが、その場合は単なる議員では絶対に終わらない。やるからには、総理大臣を目指す。それも、マジで目指す。そして、早々と総理になってやるべき改革をやってさっさと辞める。ROCK的には、トップをとったら、すぐに辞めなくてはならない。

尾崎豊も人気絶頂だったが、若くして亡くなった。生きていてくれたら・・・と思うこともあるが、彼がもし今でも生きていたら、彼の魅力は半減していたに違いない。BOØWYだって、トップを極めた瞬間に解散したよね?BOØWYの解散の原因も、「氷室と布袋の不仲じゃないのか?」とか色々言うヤツがいるが、冗談じゃない。彼らが解散した理由。それは「ROCK」バンドだったからだ。

俺の著書「AVANT-GARDE」の中で、俺が会長を辞めた理由を17歳の時にこう語った。

『何しろ、俺は「ミスター・レジスタンス」だ。その人物がトップになることは、反逆の輝かしいピークではあるものの、反逆者がトップに居続けるというのは、この上なく醜悪な事態だ。なぜなら、トップとは権威であり、その位置に座り続けるのは反逆から最も遠ざかることになるからだ。それだけは何としても避けたかった。マイノリティだから希少価値があるのであり、仮に俺の意見が最大公約数的な意見になったとしたら俺の存在意義は失われる。一方、トップにいてもマイノリティであるということは、少数与党と同じことであり、引き摺り下ろされる危険性が最も高まることになる。今回の俺は、このパターンだったのかもしれない。』

十七歳の地図 第4章 「敗軍の将、兵を語る」より
http://ameblo.jp/17smap/entry-10448581939.html

ROCKを極める人間は、トップを目指しても、トップになった瞬間、潔くその場から去らなければならない。それが、「レジスタンス」の宿命だ。

矢沢永吉さんもそうだ。彼だって、「キャロル」を解散して、今に至る。

浅間神社の近くのドラ焼き屋の主人の気持ちがよくわかる。オオヤコーヒーの主人の気持ちがよくわかる。

売れたい気持ちはあっても、本当に爆発的に売れてしまったら速やかに撤退しなければならない。職人肌の人間は、皆こう思っている。大量生産・大量消費へのレジスタンスで、「こだわりの逸品」を作っている。そのレジスタンスができなくなった時には、自分の仕事は終わってしまうのだ。だからこそ、限定販売をしたり、一見さんには売らなかったり、気まぐれで店を閉めたりするのだ。

俺もそんな人間でありたい。「知る人ぞ知る」「ミスター・レジスタンス」のDavyでいたい。

俺は、一生Davyでいることを、ここに宣言する。

もちろん、「知ってもらう」ためのプロモーション活動まで否定するつもりはない。せっかくの「いいもの」だ。色々な人に「知るチャンス」を与えなければ、フェアとは言えないだろう。だから、存在を知ってもらうために大衆の前に出ていくのは、むしろ積極的にやるべきだと思う。しかし、それは売れるためのものであってはいけない。知る人ぞ知る隠れ家的名店にしなくてはならないのだ。若いミーハーな客が土足で入り込んでギャーギャー騒ぐ店になってしまってはお終いだ。「門戸は広いが、敷居は高い。」そんな店でなくてはならない。

だから、俺は対人関係において「来る者は拒まず、去る者は追わず。」の精神なのだ。たとえリアルで俺と面識がなくても、俺に興味があってメールなりコメントなりでコンタクトをとってくれた人に対しては、まるで昔からの友達のように思ってお応えするし、いくらリアルで俺と面識があってこの前まで仲が良くても、連絡しても反応がなかったり、いい加減で不誠実な対応をする人に対しては、それなりの対応しかしない。いや、不誠実を感じ取ると、対応すらしない。だから、俺は友人関係で「親友」というカテゴリーを設けない。そうやってランクを固定することに興味を感じないのだ。来てくれれば喜んで受け入れるし、去って行くならご自由にどうぞという感じ。別に嫌われることについては、もう慣れたというかどうでも良いと思っているし、友達が減ることに関しても、その原因が自分の不誠実さにあるのであれば猛省するが、自分を貫いての結果だったとすれば、むしろ名誉だとすら感じる。

これが「Davythm」だ!

約束するよ。いつまでも俺はDavyでいることを。そして、いつまでもDavythm・DavyStyleを貫く事を。

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