終わりは自分で決めるんだ


某日のツイート。

先程、臓器提供カードにサインした。もちろん、脳死後でも心臓停止後でも、何でも提供します!ということで。財布に入れるんで万が一の時には・・・ 

臓器提供カード。この存在は10年くらい前から知っていたが、実物を見たことがなかった。先日、コンビニに行ったらレジの横においてあったので、もらってきてサインした。

(社)日本臓器移植ネットワーク
http://www.jotnw.or.jp/

俺は、脳死後でも心臓停止後でも、何でも提供するつもりである。
昨年、臓器移植改正法で色々審議され、A案というのが通った気がした。どんな案だったか忘れたが、臓器提供を推進する案だったように思う。

死生観については、それぞれ色んな意見をお持ちだと思う。どのように考えるかは、その方の自由であり、周りの人間が賛否を表明する類のものではない。その人の生き方の問題だ。だから、仮に臓器を提供したくないとお考えの人がいたとしても、俺は批判したり反論したりするつもりはない。それも1つの生き方だ。逆に言うならば、批判されたり反論されたりする筋合いもない。これは俺の問題だ。

では、なぜDavyは臓器提供に前向きなのか。
「生きる」ということにおいて、心身ともに健康であることが最も幸せなことであると思っている。WHO(世界保健機関)は、「健康とは身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない」と定義している。この定義に俺の価値観を加えるならば、仮に身体に障害があったとしても、人との関わりで喜びを感じたり、何かを食べておいしいと感じられたり、そういった「心が動かされる」経験をできる状態にあるならば、それは精神上の「健康」と見なして良いのではないかと考える。とにかく、生きている上で「心が動かされる状態にあること」が、俺にとって「生きる」ことであると考えている。

であるならば、もしそういったことができない、つまり長い間意識がない状態が続くのであれば、それは俺にとって「生きている」とは言えない。死んでいると見なされて構わない。しかし中には、使える臓器も残っているかもしれない。そして、世の中には、その臓器だけ健全なものと取り換えれば、生き延びることができる、健康な状態で生活ができる人がいるかもしれない。だったら、そういう人たちを救ってあげたいと思うのだ。「使えるものは、何でも使え」が俺の信条である。だったら、自分が使わなくなったがまだ使える臓器は、それを必要とする人たちに使ってもらって喜んでいただければ幸いである。

それが、臓器にとっての「第2の人生」という見方もできる。姿形を変えて、俺が生き続けることになると考えることもできる。非常に喜ばしいことだ。断わる理由など、何一つない。せっかく親に丈夫に産んでもらった身体だ。親も俺を産んだ時に、俺に託したものがあるだろう。世の中で役立つ人間になってほしいという思いもあっただろう。だとしたら、Davyとは違った形で貢献することができることに反対するはずはない。俺の臓器の提供を受ける者は、そういった思いも理解して生き続けて欲しい、より素晴らしい人生を送って欲しいと思う。

生きている間は、他人に後ろ指を指されながら、世間に悪口を言われ続けた男だ。死んだ後くらい、誰かの役に立って生きたいものである。良い人なんて思われなくていい。俺自身が満足して死ねればそれが本望だ。終わりくらい、自分で決めさせてくれ!という思いだ。(生きている間も何でも自分で好き勝手に決めてきただろ!という批判はこの際受け付けない)

「終わりは自分で決めるんだ」というと、自殺を連想させてしまうかもしれない。しかし、俺は自殺を賛美するわけではない。
今だから言えるが、小・中・高とトータルで7,8回、「自殺未遂」の経験がある。首つり4回、飛び降り3回。数は適当な値。全て「未遂」ですよ!!(笑)
何かに追い詰められてのものではない。死後の世界に興味があった。霊界とかそういうものではなく、もし死んだら自分はどのように扱われるのか、ということである。「誰が悲しんでくれるか」だとか「誰も興味を持たないのか」だとか、「葬式の規模はどれくらいだろう」とか「香典の総額は?」だとか・・・

でも、なぜ踏みとどまったのか。悔しいからだ。どうシミュレーションしても、俺が目指す感じになるとは思えなかったのだ。「ここで死んだら、あいつが得をする」「俺がいなくなれば、あいつに勝たせることになる」・・・そう思うと、悔しくて悔しくて死に切れないのだ。明らかに生き続ける方が得だという結論に毎回至るのだ。だから、俺は今も生きている。

いや、本当はエスケープしたかっただけなのかもしれない。目の前のことを解決するためには、死ぬのが手っ取り早いと考えてしまったからかもしれない。そういう意味では、追い詰められていたのかも。

今考えると、自殺に走った時のことを振り返ると、「自分が定まっていない」という共通点があるように思う。Davy風に言えば、「俺スタイルが未完成だった、いやスタイルを作ろうとしなかった」といえる。自分のスタイルを持たないから、社会の中で自分の居場所が無いように感じてしまい、「俺なんか世界からいなくなった方がいいんだ」と考えてしまう。だから、自殺に走る。逆のことを言えば、もう今は自殺に走るなんてありえないわけだ。今なら「俺は大衆には迎合しない。俺は俺の道を行く。俺の居場所は自分で作る。」ってハッキリ言えるから。強くなれた自分の運命、環境、人間関係に感謝したいと思っている。

なんだろう。だから、もし自殺をしようとする人がいたら、「別に社会の中に居場所を見つける必要なんてないんじゃない?」って声かけたい。「あなたがどうなろうと、誰も興味はないよ」って。「だから、逆に言えば、何をしたって自由だし、どう思うがあなたの勝手。周りの皆が友達いるからって、あなたも一緒になって作る必要もないし、結婚だって別に無理にする必要はない。『しなければならないこと』も『やってはいけないこと』も、そんなの一切存在しない。だから、別に今死ななくても、勝手に生き続けてりゃいいんじゃない?寿命になればお迎えが来るんだからさ。もうちょっとこの世界で楽しんでみない?」ってね。多分、これ、昔の自分に言いたいんだと思う。

今、俺は人生の中で自殺とは最も対極の位置にいる。だって、「やらなきゃならんこと」も「やってはならないこと」も、今の俺にはない。つまり、誰からも圧力かからないし、追い詰められる心配もない。好きなようにフラフラ楽しめる状態。3連休のうちに、イオンレイクタウンへ行く方がいいかどうかが、現在の俺の最大の課題(笑)だから、なんで皆自分のこと縛るの?っていう疑問を俺は常に持っている。好きなようにすりゃいいじゃんって。

ただ、経済苦での自殺は別。それは俺にも解決しようがないし、自分だってこれからなる可能性を否定はできない。そこは、難しいな・・・

とりあえず、今を精一杯、生きようか。


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