Davyスーツ

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教習所生活もあとは明日だけだ。それで、卒業試験を突破して本免試験も受かれば、免許取得や。長いようで、案外短かった。波に乗ってからは、月日が経つのを早く感じた。

さて、静岡に帰ってきており、かつ誰か知り合いに会うわけでもない。当然ながら、普段東京で身にまとっているDavyスーツを脱ぐわけだ。例の革ジャンではない。あれも、Davyスーツと呼んでいるので紛らわしいのだが、今回指すのは心のDavyスーツだ。ブログを書く時以外は、完全にOFFモード。Fujinamiとして生活している。

これはこれで心地よいものだ。Davyじゃない自分。fqtでもない自分。でも「素」の自分、「本来」の自分ではない自分。Fujinamiというまた1つの仮面をかぶっている自分。なかなか悪くない。一昨日だったか、複数人で行う教習の時に、小中学時代同じ学校だった1つ下の女の子と一緒だった。俺ははじめは気付かなかったのだが、向こうは気付いたようで、「同じ学校ですよね?」と声を掛けられた。それで思いだしたのだが、何か複雑な心境だったね。少しばかり会話をしたので、同じ部活だったということがわかったのだが、というか思いだしたのだが、過去の自分を知っている人がいるのは嬉しいんだけど、若干気まずい。fqtになる前の俺のことを知っているヤツは、なかなか会う機会は少ない。だから良いのだが、もしそういう人にバッタリ遭遇してしまうと、これは多重人格者にとっては結構キツイ話なのだ。

気分によって掛けるサングラスを変えるように、俺はTPOに応じて人格を変える男だ。気を使ってのことではない。それが楽しいのだ。愉快犯であり、確信犯である。だけど、この手の人間はある共通する悩みを抱える。それは、違う人格として接している人たちとバッタリ会ってしまった場合、どういった対応をすれば良いのかという話である。簡単に言えば、奥さんと愛人の両方に同時に会ってしまった場合、どういった態度を取れば良いのかという話である。そんなことが無いように、入念に工作するのだが、時には不可避の時も無くはない。これが困りものである。

こういうタイプの人間が最も嫌がることは、自分の全てを相手に知られることである。自分が見せていない影の部分は知って欲しくないし、詮索して欲しくは無いのだ。常に闇の部分を持っていたい。そして、誰にも知られない部分というのも持っておきたい。だからこそ、墓場まで持って行かなければならない話もある。

知らぬ幸せ、知る不幸。

仮に闇の部分を知ってしまったとしても、どうか知らないフリをして欲しい。気付いていないフリをして欲しい。俺ももし問い詰められても、絶対に口を割ることはない。死ぬまで、いや死んでも隠し通す。もし、誰かが俺の闇の部分を知ってしまい、その事実を俺に伝えようものなら、その人には悪いが、死んでもらうしかない。知るべきでないことを知ってしまった人間は、この世から排除しなくてはならない。

そんなことを、風呂に入りながら考えていた。何があったわけでもないが、「もし俺の正体がバレた時にはどうするべきなのか」という問いを考えていたら、こんな結論になってしまった。備忘録として書かせてもらった。

最近は、抽象度の高い記事が多いだろう。訳がわからないかもしれない。だが、俺はそれを目指している。闇の部分を創り出すためにね。DavyStyleは、むしろ低アクセスで良いとすら思っている。全く読まれないのも困るが、あまりわかりやすい記事でも逆に困る。

そう考えると、本の出版数も考えなくてはならない。「お世話になった人全員に渡したい」と思っていたが、やっぱり俺専用に1冊だけ出版することも検討しようと思う。何かの箱にしまって、「俺の葬式が終わったら開けてくれ」とでも書いてね。

闇のDavyこそ、FREEなDavyである。

布袋寅泰 「I’M FREE」

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