元「優等生」の教育論議

なんかタイトルだけを見れば難しくなってしまっているが、なるべく簡単な表現を使って書くから、頑張って読んで欲しい。別に偉そうなことをガタガタ抜かすわけではない。

今日は、こんなイベントに参加してきた。

松下政経塾 2010年度 夏期研修プログラム特別講演
「日本の教育はどうあるべきか-これからの『人財』を育てるために-」
http://www.mskj.or.jp/seminar/gaiyou/20100829_kyoiku.html

ご存知、Davyがお世話になっている松下政経塾のイベントに参加させていただいた。相変わらず交通費は高いが、それ以上の価値はあるので、価値のある出費だ。辻堂からの交通機関をなんとかしてほしいが・・・

リンク先を見ていただければわかるように、国際教養大学の学長の先生のお話を聞かせていただいたあと、パネルディスカッションを聞かせていただくというものだ。まぁ、俺の本当の目的は、その後に行われる立志論文コンテストOB・OGの会合に参加することなのだが。

国際教養大学(AIU)というのは、秋田県にある公立大学だ。秋田空港の隣にある郊外型の大学だ。入学してまもなくTOEFLを受験することになっており、その結果でクラス分けされ、英語を学んだあと、実際の教養などの授業に参加できるスタイルらしい。授業は全て英語で行われるみたい。1年目は全寮制で、日々の生活での国際交流が盛んであり、その後3年間のうち1年間の海外留学が義務付けられる。図書館は24時間開いている。なかなか卒業するのが難しいらしい。英語3文字系(SFC、ICUなど)にありがちだが、外国語を重視し、比較的少人数の教育で、課題を多く課せられるパターンの大学。

学長は、ご自身の大学の教育について熱く語られ、いかに日本の大学が劣っているかを語られていた。話をまとめると、グローバル社会、国際競争の時代において、英語をロクに使いこなせない大学生はマズイという話が主だった。もちろん、それだけではないが、そういった話が主だった。

そして、グループ発表を聞かせていただいた。おなじみ、enshinoさんと、同じく論文OBで、2回生の飯田さんという方は、夏期研修プログラム本体の方に参加されていたので、彼らの発表も聞かせていただいた。プログラム本体に参加された人はグループを作り、数分間教育問題を提起しプレゼンするといったものだ。共感できるものももちろん多かった。「自分の価値を自覚し実践できる人」=人財を育成しなければならないという発表は、なるほどその通りと思った。しかし、中には疑問に思ったものもあった。学力、たとえば英語力を向上させるには、「○○大学に行きたいから」という動機づけではなく、「国際競争で勝ち抜くため」という自覚を持てば、自然と向上するみたいなニュアンスの発表があった。俺は、「そりゃないやろ」と心の中でつぶやいていた。人間、そんな崇高な理想が直接の原動力になるほど立派なのか?一部そういう立派な方がいらっしゃるのかもしれないが、大多数の人間は、もっとドロドロした「欲望」で動くのではないのか?「誰かに褒められてやる気になったから」「女の子にモテたいから」とか、そんな単純なものでこそ人は動くと思う。

その後、国際教養大学の学長と宮川さんという政経塾卒業生とのパネルディスカッションがあった。宮川さんは教員として勤めて、この前の参院選に戦っただけあって、現場に近いお話をされていた。

質疑応答での質問した人の話も含めて、今日の感想を書く。

俺は、道州制協議会でも教育問題について政治家の先生と議論したことがあるが、テレビでの討論も、今日の会も含めて、教育問題を議論する人の多くが、皆「上から目線」であると思う。「○○は身に付けるべきだ」「○○の低下は食い止めなければならない」こういう発言が飛び交う。確かにそうだ。そういった個々の問題に関して、異論はない。英語力も身に付けるべきだ。コミュニケーション能力も向上させるべきだ。歴史に関して深く勉強すべきだ。理数系の平均点を上げなければならない。誰も反論しないだろう。

だったら、1つ聞きたい。「全部、全員が、それらを達成できるのですか?」
人間には向き不向きがある。そして、それぞれにキャパ(許容量)がある。勉強したからといって、全ての人間がTOEFLで500点を取れるわけがない。いや、1つだけならできる人もいるだろう。じゃ、それに加えて理数系も高得点を上げることができるのですか?またそれに加えて・・・全てできるのはごく一部だ。多くの人間は、頑張っても頑張ってもできないことばかり。いや、「頑張る」ことすらなかなか難しい。努力できることも1つの才能であるし、運の要素も強い。

人間は環境によって左右されやすい動物だ。全ての人間が「努力できる状況」にあるわけではない。「トップを走っていることが快感」で努力できる人間もいる。「誰かを追いかけている状態だと燃える」人はそういった状況の時に努力できる。しかし、誰もがそんな自分のチカラを最大限に発揮できるような素晴らしい環境にあるわけではない。もっと言うなら、経済的な事情で努力できない人もいる。更にいえば、例えば、英語そのものが大嫌いで受け付けないために、英語力向上のためには努力できない人間もいる。色々な人がいるわけだ。

だから、国民全体に対して「○○を身に付けさせるべき」だとして、科目を必修化したり、試験科目を増やしたりするのは大反対だ。前の政経塾の講演会で、神奈川県の松沢知事が、「神奈川県は日本史を必修科目にした。先進的である。」と嬉しそうに自慢していたが、何も自慢できる話ではない。最大の被害者は高校生だ。世界史が必修であるのに、日本史まで必修にしたら、どれだけの量をこなさなければならないのか。地理を勉強したい人を妨げる愚かな行為である。本当は、世界史の必修化も直ちにやめるべきなのに。

俺は、中学時代ずっとトップの成績だった。トップクラスの友人とも深く関わってきた。だから、「トップ」の人間の気持ちがわかる。
そして、高校時代は、ずっと「ビリ」の成績だった。ビリ集団、特に追試でご一緒する人たちと深く関わってきた。だから、「最下層」の人間の気持ちもわかる。
両方を経験してきたから言えるのだ。だいたい政治家や教員を目指す人たちは、自身の学生時代は優秀な成績で特に苦労もされなかったのでしょう。だから、いわゆる「落ちこぼれ」の気持ちがわからない。トップ集団にしか目がいっていない。言い換えれば、キャパが大きい人間にしか目がいかない。だから、「あれもやれ」「これもやれ」という話になってしまう。それが、「教育論議」になってしまうから、下層の人間はますますついていけない。

では、ビリ集団は何もしなくて良いのか、と言われそうなので反論しておく。
要するに、俺が言いたいのは、その人が「何を勉強するのか」を自分で選択できる多様性が大事なのだと言いたい。皆、何かしら好きなものはあるし、得意なものはある。ならば、それを好きなように極めていけば良いではないか。英語が苦手な人は、数学で頑張ればいい。勉強が苦手だけど、絵を描くのが得意な人もいる。それで良いのではないか。今の風潮は、勉強ができる(成績が良い)人が偉くて、そうでない人はダメだ、みたいな風潮になってしまっている。俺は、そういう思い込みを変えたい。それぞれがそれぞれの分野の「プロフェッショナル」になることが、その人にとっての1番の幸せでもあるし、国力の向上にもつながる考える。

経済学者・リカードの「比較生産費説」の人間版だ。それぞれが得意なものをプロダクトし、それを持ち寄ることが最も効率的で利益が出るのではないのか。

グループ発表の「自分の価値を自覚し実践できる人」というフレーズに共感できたのも、こういった理由からである。「自分は何がやりたいか」「自分には何ができるのか」を明確にすることで、志が生まれ夢に向かって走ることができるのではないか。そこに自らの使命があり、それに向けて前進することがその人にとっての生きる価値ではないだろうか。こういう使命感に燃えた人が多い国家は、自然と発展するのである。その自らの志を実現する時に、教養が必要なら、その時に身につければいい。英語が必要だと感じたら、その時に身につければいい。もちろん、客観的なデータとしては、幼い頃から英語に触れておくことが学習効果が高いのだろう。しかし、本当は、人間、やる気になった時にやるのが、最も学習効果が高いはずである。よく各国との比較対象に使われる「世界○○テスト」の平均点がどうだとか、そんなことはどうでもいいのである。

さて、では、それを具体的なレベルに落とすとどうなるか。
まず、入試制度の改革が必要だ。今のセンター試験は廃止し、一般入試も改革すべきだ。もちろん、大学の方針によっては、そういったものを残しても良い。しかし、「一芸入試」をもっと取り入れるべきだ。今のAO入試は、何か表彰されるなどの実績を残していないと受からないし、採用人数も少ない。だが、この一芸入試は実績不要で、大学が求めているものをそのまま問題に投影し、それを解かせるというスタイルで良い。それが英語なら英語でも構わないし、地理なら地理の問題だけやらせればいい。この場合、いくら「求めているもの」といっても、1つの科目や技能だけに絞らずに、複数から受験生が任意に選択できるような形にすればいい。その結果、音楽の得意な学生が、文学部に入学するということがあっても良いだろう。多様な人材を確保するには、学部と全く関係ないことをただ突き詰めてやってきた学生を入れるというのも良いと思う。

そして、企業の人材採用も、新卒一括採用をやめ、できれば通年で、幅広い年代、多種多様な経験を持つ人を採用すべきだ。大学を卒業してから、30歳までアフリカでボランティアをしていました、みたいな人を採用するのも良し。多種多様な経験を持つ人を採用することで、企業の活性化にもつながるだろう。

最後に、「6・3・3・4制」の廃止だ。義務教育を7年にして、ここでは日本人として最低限学んでおかなければならないことを教える。今の小・中学校の役割。能力別クラスは3年生くらいから取り入れるべきだろう。しかし、なるべく広く浅く勉強するようなカリキュラムにして、ここでは専門性は求めない。なるべく地元の公立校に行かせる。この義務教育の終了後は、大学の前に5年程度の学校を作り、そこでは、高等教育に入る前段階としての準専門的な教育をすべきだ。ここでは完全能力別クラスで、「飛び級」もあって良い。もちろん、それには大学側は入学するための年齢制限は撤廃するということで。

最後の部分は、軽い提案となってしまったので、ご批判もあるだろう。とにかく、俺が言いたいのは、
①「それぞれが「自分」を深く認識し、それぞれの使命を果たす」
②「何もかも全てをやる(身に付けさせる)姿勢ではなく、各々に合った技能を身に付ける」
③「教育問題を語る時は崇高な理想だけに終始するのではなく、様々な層の気持ち・状況・ニーズを汲み取って発言する」
以上3点を大事にしていただきたいということである。

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