インスタント・コミュニティ

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はやい・やすい・うまい
この3拍子を求められる現代社会。これは某牛丼チェーンのみならず、コミュニティの一員としての我々人間に対しても求められているのかもしれない。
当たり障りのない会話をし、「皆」の中で流行っているであろうものに飛びつき、決して「自分」を出さない。
そうすれば、少なくとも自分の立場は守れる。コミュニティの中で変なレッテルを貼られることもない。

そうやって、ファストフードのような人間が生産され続ける・・・。

俺は、この2ヶ月で、これまでいかに自分の周りに恵まれた連中がいたか思い知ることとなった。
本音で語り合える仲間がいる。その語る内容も、具体的な事象ではなく、抽象的な概念で盛り上がることができる。
全力で投げたボールを全力で受け止め、全力で投げ返してくれる。
世間がどう思うかではなく、自分がどう思うかを語ってくれる。
そんな本気の連中が俺の周りにちゃんといてくれた。

俺たちは、言葉を額面通りには受け取らない。もちろん、それを見越して投げている。
なぜなら、その言葉には比喩や逆説、強烈な皮肉が込められているからだ。
これをどう解釈するか。それがそいつの腕の見せ所。
ただし、解釈するにしても一義的には解釈しない。複雑な思想や概念がそこには込められているから。
「あいつは、あんなことが言いたかったんじゃないか、いやもしかしたらこういうことかもしれない・・・」
そんなことを考える時が楽しかったし、もし自分がした解釈を相手が示してきたら、本当に嬉しい気分になる。
作家同士の会話って、こういうもんなんだ。大喜利じゃないけど、いかに素敵なフレーズを出すか。そんな勝負を勝手にしている。
キザなセリフを通常営業のごとく何気なく出せる商売。それが求められる仕事。それが醍醐味なんじゃないかな。

一方で、同業者がいない一般の外の世界は事情が違うようだ。
いかに無難なことを言うか。いかに自分を出さずにその場限りの話を盛り上げるか。いかに人生を語らないか。
作家の世界では重厚長大型の人間が求められるのに対し、一般社会では軽薄短小型の人間が求められるようだ。
人生を語れない。自分の主義主張信条を語れない。相手からそんな話を引き出せない。
俺から言わせると、自分の足で歩いていないのかな、と思う。この仕事を初めて8年目、いかに自分を語るか、ということに比重を置いて生活してきただけに、ちょっとしたカルチャー・ショックを受けている。

自分の頭で考える習慣がない人間は、その人が持つ感性も貧しいものであるような気がする。
何か物事を表す時のボキャブラリーが少ないように感じる。
他人に対してラベルやレッテルを貼る時がある。その事に関しての是非はともかく、レッテルの貼り方がずいぶん雑だと感じる。
その人が持っているフィルターの網の目が粗いために、重要な部分を取り逃がしてしまって、わかりやすい部分だけを全てだと捉え判断しているようである。

誤解を受けるのは、ある程度は仕方ない。
俺たちは他人の誤解を利用して自分の作品のイメージをコントロールしているのだから。
その副作用として、こちらの意図しない捉え方で自分を捉えられるのは、想定の範囲内。
だとしても、その誤解の仕方があまりに浅はかなものであると「ちょっとそれはどうなのよ」と一言口を挟みたくなってしまう。

しかしながら、怖いのは誤解していることそのものではない。
浅はかな思考回路の上に出した結論であるにも関わらず、全てをわかった気になってしまっていることが最も恐れるべきことだ。
人間には、のりしろが必要だ。
違う見解を受け入れる余裕、もしかしたら間違っているかもしれないと、他の要素を受け入れるキャパを作っておくことが大事なんだ。
それは、自分の見解に対しての自信を失うことではない。
自分の見解は自信をもって持っていればいい。ただし、あくまでもそれは「自分の」見解であり、正解ではないと肝に銘じることが必要である。
「自分はこう思いましたけど、なるほど、そういうお考えもありますね。もしかしたら、そちらの方が正しいのかもしれない。」と。

俺は比較的自分の好きなようにやっているように映るかもしれないが、決して自分が100%正しいなんて思っちゃいない。
正しいか正しくないかは別次元、やりたいように自分のルールでやっているだけだ。
これまでずっと、自分の頭で考え、自分独自の美学を持ち、自分の足で歩いてきた。
長年にわたって蓄積されたものを用いて、俺なりのルールを作っている。
最近は、それが板についてきただけあって、それなりに堂々とやることができる。

では、そのルール、というか美学をどうやって作ってきたか。
具体的なこと以上に、抽象的な概念について考え、論じ、語ってきたんだ。
その上で、物事を考える上での材料となるものを広く集めてきた。
だからこそ、俺が持つカバンには重すぎるくらいたくさんの果実が詰まっているのかも。

今回のこの話も、誰かを批判するためのものではない。
軽薄短小型の人間がどんどん生産されていくことについて、危機感を覚えたまでだ。
そして、自分がどうあるのか、今後どうしていくのかについて考えてみた。
俺の職業はアーティスト。会社員はあくまで生計を立てるための手段。
気持ちだけは、いつまでもそうありたいものである。

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