引き際の美学

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人生において、2種類の死を迎える。
1つ目の死は、人間としての死。文字通り「死亡した」状況だ。
2つ目の死は、職業人としての死。つまり、引退のことだ。

プロ野球界では、今シーズン多くの選手が引退する。金本選手や城島選手、石井琢朗選手、田口壮選手、高津投手、今岡選手、小久保選手・・・。俺にとってプロ野球が大好きでいた時のスター選手ばかり。1つの時代が終わったんだなと強く感じる。2004年のオリックス・近鉄合併に失望してからはそこまで野球を追うことはしていないが、やはりかつて大好きだった選手の「その後」は気になるものだ。

今日は、2つ目の「死」、引退について述べたい。

プロ野球選手ばかりでなく、我々一般人も「引退」の決断をすることはある。身近な所で言えば、バイトを辞める、会社を辞める・・・。「辞める」ことばかりでない。恋人と「別れる」ことも、ある種の引退だろう。学校を「卒業する」ということも、学生生活からの引退のようなものだ。
卒業や定年退職などはいわば「決められた」ものであるが、その他の引退の決断は自分ですることの方が多い。引退の決断は、かなりの悩みどころだ。物事を「始める」時とは別の種類の労力を必要とする。「始める」時には、エネルギーが必要だ。前に進むエネルギー。パワーと置き換えても良いだろう。一方、引退する時には、テクニックを必要とする。適切な時期かどうか、今身を引くことはプラスになるかどうか、引退する「理由」は正しいものだろうか。頭で考えなくてはならないことが多いのだ。

タイミングに関しては、各人の好みや趣向によるものが反映される。金本選手や工藤投手のようにボロボロになるまで、限界まで選手を続けるのか。新庄選手のように「まだやれるのに・・・」と言われながら引退するのか。どちらも美しい。また、周囲の意向と本人の意向が一致したタイミングでの引退を決断する人もいる。それもまた美しい。

では、自分の人生に置き換えてみた場合、どうだろうか。
俺は、新庄選手のように「まだやれるのに・・・」と言われるような状況で、少し早めに引退の決断を下したいと思っている。「もったいない」状況で身を引きたい。
腹八分目の美学というのだろうか。俺の美学としては、「もう少しやれたかもな」と思えるような状況でピリオドを打ちたいのだ。理屈で説明できるものではないが。ただ、あえて言うとするならば、その方が続きのストーリーをいつまでも夢の中で描き続けていられるからかもしれない。

昔、ヤクルトに大杉勝男という選手がいた。東映(今の日本ハム)に入団し、後にヤクルトに移籍した。打撃が素晴らしい選手であり、引退する直前には史上初の両リーグ200本塁打まであと1本に迫っていた。引退試合の日。誰もが「あと1本」を願う中、惜しくもセ・リーグでの200本塁打には届かなかった。そして、引退試合での最後の挨拶、彼はファンに向かってこう語りかけた。
「最後に、わがまま気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、この1本をファンの皆様の夢の中で打たして頂きますれば、これにすぐる喜びはございません」

続きは、夢の中で描いてみたい。
それが、俺の「引き際の美学」である。

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