「言い訳」を「生き様」に変えるという挑戦


人々が普遍的に正しいと信じ込んでいる価値がある。それを正しいと思うこと、そこには理屈など存在しない。
例えば、「なぜ、他人の物を盗んではいけないのか?」という問いに、理屈でうまく答えられるだろうか?
法律的な解釈をすれば少々理屈っぽくはなるが、真実を突いているとは言えない回答になってしまうだろう。結局、「ダメなものは、ダメなんだ」という所に行きついてしまうのではないだろうか。
少なくとも、俺はうまく説明できないということは事実だ。「自分を相手の立場に置き換えて考えてみろ」とくらいしか言えない。

そうやって、人々が築いてきた普遍的な価値を破壊し、新たな価値を想像するのは至難の業だ。身内からの「声なき声」の反発も免れない。
でも、人々と違う自分なりの価値を創造できた時、お前の走るハイウェイはお前だけのものになるんだ。
俺はそう信じて、これまで生きてきた。そして、今もその闘いに挑むつもりだ。「趣味は常識を覆すこと」なんて言えるのも、この戦いに勝利した時の、というか、俺の走るハイウェイを自分だけのものにする喜び、極限のスピードで走るオープンカーで飲む勝利の美酒がたまらなく心地よいもので、忘れられないからだ。

朝の首都高を考えてみろ。皆が同じ方向、都心へ向かう。だから渋滞し、一向に道が開けない。渋滞環境にある場所は、排気ガスで空気も悪く、高速料金を払っているのに飛ばせる爽快感もないものだから、ただただ不快である。逃げようとしても、高速道路はICを使わないと逃げられない。
実は、「みんな」と同じ方向に向かっているということは、不快極まりないことが多く発生するということなんだ。通勤ラッシュの電車もそう。逆方向に行くのなら、実需以上に過剰に本数は多いわ、車内はガラガラだわ、効きすぎているほど空調は効いているわ・・・。良いことづくしだ。自らの乗る満員電車の窓から、向かい側の電車にポツンと座る乗客を、うらやましく思うことはないだろうか?特に、朝から30℃超える日の、ロクに空調も効いていない総武線なんかなら尚更(笑)

俺は、ラッシュとは逆方向に向かう電車の乗客になりたいんだ。あの爽快感を手に入れたい。渋滞方向とは逆方向のハイウェイを走り、「俺だけのハイウェイ」を手に入れたい。
そこで、再び、「常識とは逆コースを行く」ことに挑んでいるんだ。



先日、こんなツイートをした。こればかりでなく、最近は「結婚しない」主旨の発言が多いだろう。もっと踏み込んで、「恋はしても、恋愛はしない」主旨の発言もこのようにしている。
何年か前までは、俺は敗者だと思っていた。いい歳になっても彼女ができず、結婚の展望も見えず、たださまよい歩いている負け組だと思っていた。だから、どんな強がりも「言い訳」にしかならなかった。打席に入りながらも、バットにボールが当たらないことを嘆いていた。
でも、今は違う。自らその権利を放棄したんだ。小さな自殺をした。打席にすら入ることを辞めた。もっと言えば、球場にすら俺はいない。違う種目に取り組み始めたんだ。
だから、どんなに強がっても「言い訳」にはならない。「言い訳に聞こえるよ」という輩は、メインストリームの思考から脱却できていないというか、逆コースを認めることを恐れているのだと考える。今の「原発やめろ」がメインストリームとなっている世の中で、「原発続けろ」と言うのを怖がっている連中なんだ。逆コースとなっている「原発推進」を認めることで、生命軽視、原子力ムラだと言われるのが怖いんだろう。今の政治家見てみろよ。怖くて誰も「原発推進」を言い出せない。「徐々にやめます」と皆口を揃えて言っているではないか。

それだけ、逆コースを認めるということは、勇気の要ることで、怖いことなんだ。逆コースを「進む」人間はなおさらだ。きっと俺も「弱虫」「臆病」「強がり」「言い訳野郎」と様々なレッテルを貼られていくのだろう。天動説が広く信じられていた時代に、地動説を唱えているようなものだ。笑われるだけでなく、処刑されるかもしれない(笑)ノアが方舟を作っている時だって、多くの人にバカにされただろう。でも、俺は信じてる。近いうちに、必ず大洪水が起こる。その時のために、今はせっせと方舟を作っているんだ。

1939年、ヒトラーとの宥和を進めるチェンバレン首相に対し、野党を代表質問に立ったアーサー・グリーンウッド議員は、首相の答弁にたじろぐことがあった。このとき、与党の保守党席から「アーサー、スピーク・フォー・イングランド(英国のために語れ)」と声が飛んだ。グリーンウッドは、その声に勇気づけられて、対独開戦を政府に迫る歴史的な名演説を行ったという。
安倍晋三 「美しい国へ」はじめに より

俺にも聞こえたんだよ。「Speak for Davy」と。

俺が戦う相手、というか創り上げるべき価値観は何か。
自らが恋愛や結婚をしない、ということだけじゃない。そんな軽薄な誓いをするつもりはない。
それらが無くとも、幸せな生活が送れることを示し、またそういう価値観でもいいじゃないかと言わしめるような作品を生み出したい。例えば、オリコントップ10に入るような曲の歌詞を見てほしい。「逢いたい」「好きと伝えよう」「愛だけが全て」・・・こんな詞で溢れかえってはいないだろうか?勘違いしてほしくないが、俺はそれを否定しない。愛や恋が素晴らしいのは認めた上での発言だ。ただ、誰もが皆、愛や恋を称賛しまくることで、逆コースを否定することにはつながらないだろうか、と危惧している。世の中にあるいじめ問題。これも、ある価値観と逆を行く人間を排斥するために行われている側面がある。愛や恋を称賛しまくる曲で占められることにより、それが手に入らない人たちが貧しい不憫な思いをするんじゃないか。俺はこの事を非常に心配している。

乙武さんが、「手足が無くても幸せに生きられるんだ!」と示してくれたように、愛や恋が手に入らない人でも幸せに生きられるんだということを、そのモデルケースを提示したい。かつての俺には、そう言ってくれる人がいなかった。「いつかはいい人が現れるよ」と言う人はたくさんいたが、「別にそんなの現れなくてもいいじゃない」と言ってくれる人はいなかった。

そちらの方面では現れなかったが、別の方面では逆コースを提示してくれる人はいたかな。それが、布袋さんだ。
会長をやってた頃、俺は孤独だった。誰もついてこれる人間はいなかった。巷では「君は一人じゃないよ。皆がいるんだよ。」という言葉が溢れかえっていたが、そんなものを信用できるはずもなかった。
そんな時、布袋さんだけが、「一人でいいじゃないか」と言ってくれた。

きっといつの日か 孤独とも愛しあえる
影さえ捨てた奴等には 判るはずのない祈り
きっといつの日か 自分を越えられると
涙が出るほど痛いPUNK 聴くたびに信じられる

傷だらけの夜 暗闇に包まって
涙も流さず 泣いたことがあるかい?
知らないだろう? 孤独と言う名の FREEDOM
俺たちのラブソング

こう言ってくれるアーティストは、布袋さんだけだったんだよね。この2曲に関しては、作詞も布袋さんが自らしている。すごく勇気づけられた。だから、迷わずついて行くんだ。そして、俺もこうやって「逆コース」を「いいじゃないか」と言ってあげられる、そんなアーティストでいたいんだ。同情なんかじゃなく、本気で心から肯定している詞を投げかけられる男でいたい。

恋愛に生きる男もいい。「頑張れ!」って応援する。だけど、そうじゃない人生もまた素晴らしいってことも、知ってほしい。そして、絶望する前に、「逆コース」を選べる人生でいてほしい。俺はそのための環境作りをしてやる。そんな感じのアートもいくらでもプロダクトしてやる。モデルケースだって示してやる。どんな価値観のヤツも、臆することなく、自信持って堂々と楽しく生きて欲しいから。また、俺がこのように「心のバリアフリー」を推進することで、あの頃の俺を支えてくれた音楽に対しての恩返しが、少しでもできたらいいんじゃないかと思っている。

直接は何も言わないし、言えないよ。この記事だって、誰が読んでくれているかわからないんだから。でも、そんな見えない「同志」の連中に、間接的にだけどメッセージを贈れたらいい。今度の曲の歌詞にも書いたが、俺はそういう価値観が大好きな男だからさ。リリースしたら、聴いてくれ。歌詞を読んでくれ。俺がどういう人間か、きっとわかる。

これが俺の「生き様」だ。


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